今回は本テーマの最終回として、応神天皇東征説に付いてお話をします。
記紀のよりますと、応神天皇は神功皇后の子供で、九州において生まれたとされております。不思議なことですが、神功皇后の存在を認めていない専門家は数多くおられますが、応神天皇が九州の出身であろうと推測する専門家は非常に多くおられます。勿論天皇陵の関連から、河内地方の豪族であるとする学者もおりますが・・。それはさて置き、応神天皇は九州で生まれ、その後畿内に進出したと考える意見がかなりあります。
騎馬民族国家説
先ず騎馬民族国家説の話をします。この説は余りにも有名ですし、又奥の深いお話ですので、詳細は省略しますが、おおよそ以下のような考え方です。戦後間もなくの昭和24年江上波夫氏が発表されました。当初は崇神天皇が朝鮮より進出し、その勢力が畿内を席捲したとしていましたが、その後修正を加え、次のような考え方として、まとめられています。
四世紀の初め大陸北方系の文化複合体を帯同した辰王の後裔が、朝鮮半島南部から九州に渡来したと想定し、その中心人物が、任那の城の王ミマキイリヒコ、すなわち崇神天皇であるとしています(第一回建国)。そして北九州をその勢力下に置き、その後、体制を充実させ、その流れをくむ応神天皇が四世紀末畿内に進出した(第二回建国)と言う考え方です。これらを立証する事として、東北アジアの4〜5世紀にかけての北方騎馬民族の南下の事実、北九州弥生文化と後期古墳文化の連続性、その他専門的な事柄を精査しています。
その上で、日本書紀の天孫降臨神話は第一回建国(崇神天皇)であり、国譲り、神武東征神話が第二回建国の反映、すなわち神武東征は応神天皇であろうと言う考え方です。この説では邪馬台国が何処に在ったのかに関しては、言及していないように私には思えますが、応神天皇は神功皇后の子供であり、記紀においては卑弥呼=神功皇后ですから、この説では邪馬台国は結果として、九州にあり、その後畿内進出を果たしたことになり、ある一面では記紀の内容と一致する性格を持っています。
この説と関連し、九州王朝東征説(邪馬台国九州説)を支持する学説として、中山平次郎、和辻哲郎、井上光貞、橋本増吉、牧健二の各氏等が多くの論文を発表しています。
東西激突説
次が東西勢力の激突による応神天皇東征説です。この説は、天皇諡号の研究等で有名な水野祐氏の考え方です。氏は1代〜9代開化天皇を初め、多くの天皇の存在を否定していることでも有名な歴史家ですが、おおよそ次のような結論を導いておられます。(日本古代王朝史論)
崇神天皇(10代)の諡号である『ハツクニシラススメラミコト』が初代の天皇であるとして、それ以前に、畿内において代々継承されてきた原大和国家を、三世紀末頃、彼が統一したとしています。この勢力が『西』に向かって進出し、吉備、出雲等を征服、西日本をほぼ統一した。この時代が崇神、垂仁天皇の時代である(古王朝)としています。一方九州では、倭国の内乱(魏志倭人伝による倭国乱れ・・西暦178年〜183年の説あり)で、中心的な国であった『奴国』の勢力が低下し、邪馬台国連合が成立した頃、奴国の分国であった南九州にあった『狗奴国』が、その間に南九州を統一、この二つの大国、すなわち、『邪馬台国連合』と『狗奴国』の戦いが行われ(魏志倭人伝に記述あり)、邪馬台国が敗れ、四世紀の初め、狗奴国が九州全土を統一した。
その後、四世紀の中頃、畿内から西に向かった勢力が、その勢いで九州に上陸、狗奴国と戦い、畿内勢力は九州勢力に敗れた。これが記紀に言う、仲哀天皇(14代)と神功皇后による熊襲征伐であり、記紀の通り、仲哀天皇は熊襲の矢に当たり死亡、畿内勢力は滅亡したとし、この時の『狗奴国』が応神天皇である、としています。この天皇が東征し、その次の、仁徳天皇(16代)になって、新しい王朝(中王朝)がスタートしたと言う考え方です。
この説は邪馬台国は九州に在ったが、東征してきた勢力は狗奴国であると言っています。このように推測する根拠は多岐に亙りますが、省略します。以上が応神天皇東征説の代表的なお話です。