前回は神武東征説に関してお話しました。神武東征を、邪馬台国以前の時代であるとし、その後畿内に邪馬台国を建国した、いわゆる記紀の記述に信憑性がある・・最初の畿内説は記紀とする考え方と、同じ神武東征でも九州に在った邪馬台国が畿内に進出したと言う、前回お話した説では、同じ神武東征説でも結論が全く異なります。
いずれの天皇も、以前にお話しましたように、時代的にはどう考えても魏志倭人伝に登場した時代の邪馬台国より後の天皇と思われますから、したがって、ここから得られる結論は次の二つになります。
@ 九州に在った邪馬台国の末裔が畿内に進出した。
A 畿内に在った邪馬台国が、東征してきた勢力に征服された。
結論から申し上げますと、それぞれの説に説得力があり、当然の事ながら、アマチュアの私にはどちらなのか判りません。唯、各説ともかなりの推測が行われております。やむをえないこととは思いますが・・
崇神東征説の基本的なスタンスは、神武から九代開化天皇までは架空の天皇である、としています。(勿論例外的に実在したと言う専門家もおりますが・・)その根拠は、神武天皇と共に、崇神天皇は『ハツクニシラススメラミコト』と言われ、初めて国を治めた天皇であると理解されております。すなわち二人の『ハツクニシラススメラミコト』がおります。又、神武天皇の記述は、大和に入るまでの記述が大半であり、その後の活躍や、9代開化天皇までに関してはほとんど省略されており、国を治めるための苦難は、崇神天皇紀に多く書かれている等を挙げています。このような事から実体としては、崇神天皇が最初の天皇であろうと推測しています。
天皇の系統には『イリ王朝』、『ワケ王朝』 等の系統が在り、万世一系ではなく、何回か交代をしている説が有力です。専門家のよっては『古王朝(崇神・成務・仲哀)』、『中王朝(仁徳以降)』、『新王朝(継体以降)』等王朝の名前や数は異なりますが・・。特に天皇のおくりなである、諡号(しごう)に関する研究は盛んで、一字一句を事細かに分析しています。このテーマはそれなりに重みのある問題ですが、かなりややっこしいので、ここでは省略します。それはさておき崇神天皇が上記の研究の結果『ミマキイリヒコ』と言われたことから、『ミマ・キ・イリ』の意味を解析し、この説(崇神天皇東征)を唱える専門家は、大陸からの征服者であるとしています。(任那との関係等、諡号に関する研究は中々面白い、且つ重要なテーマですので参考書で勉強してください)
そして、この天皇が、朝鮮半島から九州に上陸し、更に歩を進めて畿内の進出し、畿内に在った邪馬台国を征服し、勢力下に治め、大和朝廷の原形を完成させたと言う考え方があります。なぜ畿内に邪馬台国があったと言うことに関しては、総論として以下のように述べています。治世に悩んでいた崇神天皇が、その7年にヤマトモモソヒメ(卑弥呼の候補者の一人)が神懸かりして『我を敬えば平らになる』と託宣する話が在り、色々祭ったが一向に効き目が無く、結局、『オオモノヌシ』が現れ、我が子の『オオタタネコ』を祭れ、との夢から、オオタタネコを探し出し『オオモノヌシ』を祭らせたところ、疫病はやみ、穀物は豊かになった。この話から、先住の三輪山信仰をを中心とした国家が既に存在し、これが邪馬台国であるとしてます。侵略された彼らの怨念を鎮めたと言う事でしょう。確かに三輪山を中心とした葛城王朝が栄えたことは考古学的にも認められているところです。したがって葛城王朝から三輪王朝に政権の交代が行われたとしています。
更にこの先住の畿内邪馬台国の歴史を尊重し、敬い、崇神天皇以前の天皇として登場させ、これを神武から開化迄の9代の天皇とした、と言う専門家もおります。
これに対して、朝鮮半島から進出した崇神天皇は、九州に在った邪馬台国を制圧し、その後畿内に進出し、原大和国家を完成させたとする考え方もあります。(第一次騎馬民族国家説) 騎馬民族国家説に関しては、当初の発表から多少の修正が行われ、現在では応神天皇東征説になっていますが、この件に関しては次回にするとして、ここでは単純に、崇神天皇が九州邪馬台国の勢力を率いて、畿内に進出したとする説がありますとしておきます。
この説は記紀からの結論と言うよりは、典型的な邪馬台国九州説の中から必然的に出てきた(東征があったとすれば誰か、と言う議論の中で)説で、神武天皇の時代を、架空と捉える専門家の考えです。中国とやり取りの出来るような大国が、畿内大和に在ったとすれば、そのような大国が、九州勢に倒されるわけが無い。九州から東征してきても、はじき返されるのが常識的な見解である。すなわち『東征が行われた事』この事自体が、畿内にそれほどの実力を持った国が存在しなかった明白な事実である。としています。