既にお話した通り、口伝・伝承が伝えた、『西から東に大きな勢力が移動してきた事』は事実であろう、とする考え方に対して、ほとんどの専門家が共通して認めています。それでは東征は何時、誰によって行われたとされているのでしょうか。今回はこのもっとも重要な核心部分のお話をします。これにも幾つかの意見があります。
この説は基本的に、記紀の内容を尊重した考え方です。すなわち各天皇は、原則として全て存在したという立場です。このページは入門編という事で、個人的な専門家のお名前は出来るだけ控えて、多くの専門家の研究成果や考え方を、マクロ的にお話していますが、敢えて掲載させて頂きます。この分野で統計学を駆使して、実に論理的に研究されておられる『安本美典氏』の考え方を中心とした説です。(これに賛同されている、或いは同じような考え方を持つ専門家も多数おりますが・・氏の研究成果が特に参考となります)
氏は先ず、多くのデータを使用して統計的に、王位在位期間に関する調査を綿密かつ多岐に亙って精査されています。その調査範囲は、天皇家のみならず、、鎌倉、室町、江戸時代の将軍、果ては中国、西洋の王の平均在位年数や、天皇家の皇位継承タイプ別(父子継承、兄弟継承、叔父甥継承等)の場合の平均在位年数、更に時代を大きく分割し、それぞれの時代における平均値と、時代を溯った場合の変化の傾向に迄及びます。グラフや表で分かり易く表現されており、大変な労作です。これらの結果、氏は凡そ次の様な結論に達しています。
1 | ◆時代を溯るにしたがって、在位期間は短くなる傾向にある。 |
2 | ◆上代における皇位継承期間は凡そ10年〜11年程度が導き出せる。 |
3 | ◆仁徳天皇(16代・没年427年)以降は信頼出来るとして考えると、
◆西暦240年前後迄(180年程度)溯るには、丁度16代程度必要となる。 |
4 | ◆この結果、初代神武天皇は論理的に邪馬台国時代終り頃の人物である。 |
5 | ◆神武であれば、高天が原=邪馬台国=九州と考えられる |
6 | ◆よってこの年代から、卑弥呼は天照大神であろう。 |
7 | ◆邪馬台国は九州にあり、女王は天照大神でその後、三世紀後半神武天皇の東征が行われた。 |
8 | ◆崇神天皇の時代は、318年、258年とは思えない。没年干支は誤りと考える。
◆凡そ360年前後の年代ではないか |
9 | ◆よって倭迹迹日百襲姫(ヤマトトモモソヒメ)は時代的に後の人と考える |
総論として上記考えを持つ専門家は旧来より多くおりますが、更に卑弥呼に関しても次の様に言及し、理論を補強しています。すなわち天岩戸事件を境にして、天照大神の存在感が変化していることを、出現回数から統計的に整理しています。その結果、天岩戸事件前はすべて天照大神の単独行動であるのに対し、事件後は高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)との共同行為である事を証明し、以下の如き結論を得ています。
1 | ◆天岩戸事件は卑弥呼の死を意味している(日食説、冬至説等を否定) |
2 | ◆天岩戸が開くまでの時間は台与出現までの争乱の時ではないか |
3 | ◆台与は高御産巣日神の子で、天孫降臨をしたニニギノミコトの母である万幡豊秋津姫(ヨロズハタトヨアキツヒメ)と考える |
あまりにも省略していますので、的確にお伝えしているか多少不安ですが、以上が氏の考え方の概要です。勿論単純計算で平均在位年数を求めた先達の専門家もおられ、その結果、古代天皇の平均在位年数にはその他に20年〜30年程度であるとする専門家も多くおりますが、これほど沢山の統計上の数値から算出してはおらないようです。(尚、天皇の在位年数を10年程度とすると、という表現であたかも自論の如く使用している研究者もおります・・如何なものでしょうか)
これに対して反論もあります。その主たる考えは次の二つに集約できるでしょう。
1 | ・対象とする時代は大半が父子継承である
・通常、親子の年齢ギャップは凡そ20〜25程度ではないか ・したがって天皇によって長短はあるが、平均すれば20年〜25年程度である ・16代では300年〜400年溯るのではないか |
2 | ・院政に代表されるように、多くの天皇は死亡する前に譲位している(同時に3人生存もある)
・皇極(35代)が孝徳に譲位始めてから、明治まで87代中、56代の天皇が譲位によって皇位を継いでいる(北朝天皇を除く) ・結果的に在位年数は短くなる ・然るに、古代天皇は死亡によって継承している、平均在位年数は長くなるのではないか |