前回迄数回に亙って銅鏡に関するお話をしてきました。邪馬台国問題に関して、魏志倭人伝と考古学を結び付けるテーマとしては、その他に真珠、五尺の刀、金八両等が有ります。しかし特に特徴的な記述もありませんので、前述したごとく副葬品として出土した時、補助的な意味で価値があるものと思われます。残る最後のテーマは地図問題です。
しかしここに参考となる地図が存在しています。
掲載した地図は『混一彊理歴代国都図』(こんいちきょうれきだいこくとのず
、と読む)といわれる地図です。
この地図は今からおよそ600年ほど前の『元の時代の西暦1402年』に朝鮮で作られた古い地図に、日本の行基図という日本最古の地図(西暦805年と言われている)を組み込んだものと言われています。邪馬台国に多少の興味を持っておられる方々にとっては、既にご存知の有名な地図ですが、入門編と言うことで敢えて掲載しました。
この地図を見る限り、右下に表示されている島が日本国であり、しかもそれは九州を北に、南に長く伸びた形をしています。またその位置は丁度、中国の海南島の東に位置し、魏志倭人伝の記述と方向、相対的な位置が不思議なほど一致しています。行基図がある程度正しい方角で表現されてたとすれば、組み込む時、何故このような方角に組み込まれたのか不思議と言えば不思議です。とに角このような地図が存在していることは事実です。
この地図は畿内説の方々にとっては、『15世紀初頭時点ですらこのような智識であったようだとすればそれより1100年も前の時点で、正確な方位を認識しているはずが無い 』として畿内説の有力な証拠として取上げています。すなわち『南邪馬台国』はこの地図のごときイメージで書かれたものであり、実体としては東の方向であったのである、としています。
一方九州説の方々は、『 1100年以上のギャップが有り、この地図によって三世紀の智識を推測することに意味が無い』、『 蒙古の襲来(1274年・1281年)や、それ以前の中国との貿易がこのような地図認識で行われたはずが無い 』等相変わらずの論争をしているようです。只、冷静にみて、確かに畿内説に対して説得力を持つような気もしますが、皆さんいかがでしょうか?。
7世紀以降、遣随使、遣唐使、対宋貿易等沢山の交流があった訳ですから、当時の地図が中国に存在していてもおかしくないと思いますが、それが無いのも不思議です。
結局、考古学上からも、参考になるいくつかの要素は存在しますが、現時点において決定打となっていません。しかし考古学の進歩と相俟って近い将来すばらしい決定打が出るかもしれません。また期待をしているところです。以上で考古学上からの観点に関する入門編を終わります。