前回は、国産か、中国製かの論点をお話しました。今回は銅鏡議論のその後の展開に関してお話します。
この鏡は中国の戦国時代後期(紀元前300年頃〜221年)から前漢(紀元前202年〜西暦8年)、後漢(西暦25年〜220年)そして三国時代(西暦220年〜280年)にかけて流行った鏡のようです。この鏡は三角縁神獣鏡ではなく、方格規矩四神鏡です。 青龍三年は西暦235年に当たり、卑弥呼が使者を遣わした西暦239年(238年説も有り)の四年前の年号です。今まで出土した紀年鏡は、全て卑弥呼が使者を遣わした年、又はそれ以降の物でした。また魏志倭人伝に記載された年号と同じ年号でした。(例外的に元康年間(290年代)あり)
ところが魏志倭人伝に載っていない年号であり、卑弥呼の 遣使以前の年号である。中国にも多く存在する方格規矩四神鏡であり、この 鏡種は北部九州でも多数出土している。出土した場所が丹後と言う地域であり、五世紀には相当栄えた土地で、以前から邪馬台国問題ではかなり注目されていた(詳細は省略)地域である。おおよそ以上のような考え方から、畿内説、九州説にこだわらず、卑弥呼が賜った百枚の銅鏡に含まれるのではないか。としている専門家が多いようです。確かに倭の使者がお土産としてもらってくるには四年前の年号は、丁度良い年であり、何となく納得できますが・・。
勿論、文様の彫が浅い、その他の理由によって、国産鏡であると考えている学者もおります。いずれにしてもかなりのインパクトを与えましたが、この鏡が銅鏡百枚の一部であったとしても邪馬台国の所在の決定打とはなっていないことは、言うまでも有りません。
次に最近の新しい発表をご紹介します。お読みになった方も多いと思いますが、1998年7月26日の日本経済新聞に『
卑弥呼の鏡・三角縁神獣鏡は八枚』という記事が掲載されました。大阪府高槻市立埋蔵文化センターの森田克行氏の見解です。
これによりますと、卑弥呼の鏡とする三角縁神獣鏡は『安満山古墳出土の環状乳神獣鏡』や、『
景初三年(島根県)、正始元年(兵庫県、群馬県)』の年号入りなど八枚である、としています。そして、これまでの研究では図像や文様の変化から製作時期を三〜四グループに分類し、初期グループの約四十枚を卑弥呼の『百枚の一部』とする見方が出ていたが、森田氏は前期古墳の発掘が進んでいない現状では四十枚でも多すぎると考え、初期グループを詳しく検討。これらの八枚は、
@縁の断面が典型的な三角形でなく上端が尖ったり内側に曲がる
A図像や文様は他のグループに引き継がれていない
等の観点から、これらは『三角縁神獣鏡が定型化する前の原初タイプ』で、『
魏が卑弥呼の為に製作した最初の三角縁神獣鏡群』と判断した、としています。
更に、三角縁神獣鏡ではないが、『安満山古墳』出土の『
半円方形帯神獣鏡』など四枚は原初タイプと似ている為、合わせて12枚が最初の魏鏡であると結論づけ、魏はこれらをモデルに三角縁神獣鏡を製作、モデルも加え百枚にし卑弥呼の下賜したと推測しています。
素人の私には難しくてよく理解できませんが、これによりますと、卑弥呼の下賜された百枚は、全て舶載鏡(中国製)であり、12枚が出土、88枚が未出土であり、出土している400枚以上の三角縁神獣鏡は全て国産鏡という事になります。これも一つの見識でしょう。
何れにしても冒頭から申し上げているように、現時点では、邪馬台国の所在を明確にするには至っておりません。卑弥呼の鏡は、九州地方から多く出土する『 漢鏡』なのでしょうか、それとも畿内から多く出土する舶載鏡とみなされている少数の『 三角縁神獣鏡』なのでしょうか。また銅鏡が国産品であるとすれば、当時の倭が文字や中国の年号の知識をどの程度持っていたのでしょうか、それとも呉の工人が倭で作ったのでしょうか。尚鋳造技術は、銅鐸の制作年代が、もっと古いので(1〜2世紀)、倭には存在していたことは明白のようです。