記紀は邪馬台国に関して、具体的に何かを記述しているのか?。結論から言えば邪馬台国に関して、特に語っていません。したがって当然の事ながら、記紀から直接邪馬台国の所在を導き出すことは不可能です(不可能であるから論争がつづいているわけですが・・)。しかしながら検討に値する、重要と思われるキーワードが存在しています。基本的には以下の三点に絞られるでしょう。(専門的にはその他多くの論点が有りますが・・)@ 神武東征と言われる『東征説』は邪馬台国時代の前か後か。
邪馬台国時代の後で行われたとしたら、九州説が有力。(邪馬台国勢力が東征)
邪馬台国以前に行われたとすれば、畿内説が有力。(東征後邪馬台国に発展)
B 邪馬台国(卑弥呼)と『東征説』は直接関係がない。
魏志倭人伝は東征に関して何も語っていない。東征は東征、邪馬台国は邪馬台国である。
東征は重要であるが、その結果で邪馬台国を特定できないが、卑弥呼と思しき人物は想定可能。
およそ上記の三点です。記紀の重要な記述に関しては、次回以降で多少、年代も含めお話しますが、とりあえずキーワードとなる『 神武東征』関しては、皆さんご存知だと思いますが、重要なので、以下に簡単にお話しておきましょう。
我が国第一番目の天皇である神武天皇は、東方に都とすべき所を求め、日向の国(今の宮崎県)を出発し、豊後水道を経て、北九州筑紫で一年ほどすごした後、瀬戸内海を経由して、河内に上陸し、生駒を超えて大和盆地に入ろうとするが失敗し、やがて方向を変え、紀州、熊野から上陸、八咫烏(やたからす)に先導され、遂に大和盆地に入り近隣をすべて平定し、畝傍(うねび)の橿原宮に即位する(紀元前660年)というお話です。(紀元前660年は、縄文時代であり、文字はおろか暦等も我が国には存在しているはずが無く、後世に求めたものであり、年代に関しては、全く根拠は無いものといわれています・・これに関しては後述します)
この九州から大和への東征記述が、年代等は別として、実際に有ったことであれば(多くの専門家は相対的には事実であろうとしています)、それは西暦230年代より以前であるか、以降であるかが大きな分かれ目となります。すなわち、邪馬台国時代の前に行われたとすれば、邪馬台国は 東征後成立したことになり、必然的に畿内説が有力となります。三世紀前半以降に東征が行われたのであれば、邪馬台国は九州に有り、その勢力が東征したとする考え方が有力です。 邪馬台国勢力と無関係の勢力が東征したとすれば、邪馬台国は何処にあってもよい事(邪馬台国は東征勢力 に征服されたか・東征後成立したかは別にして)になります。
どちらであるかを判断する材料
としては、記紀の記述から、幾つかの物語や、その時の年代
が有りますが(次回以降で多少お話します・・)、最大の材料は、東征の事実
と卑弥呼の存在を想像させる重要な
事象内容と年代(魏志倭人伝に対応して西暦に換算した年代)です。東征と思われる記事が繰返し記述されていますし、卑弥呼と思しき人物が、神武東征以前と以降の両方に存在しています。専門家はそれぞれ持論を展開し、それ以外の説を否定していますが・・九州説の場合、天照大神=卑弥呼=邪馬台国、その後東征であり、畿内説の場合、先ず東征、その後、邪馬台国成立、代表的なパターンとして、神功皇后・倭迹迹日百襲姫(ヤマトトモモソヒメ)=卑弥呼の図式です。実際には単純ではありませんが・・。
2002年6月、日本を熱狂の嵐に巻き込んだサッカーW杯、ご存じの方も多いだろうが、我が日本代表のユニホームにも、三本足のカラスがエンブレムとして使われている。 ところで、なぜサッカーにカラスなのだろうか。 現在のエンブレムは、日本サッカー協会が、1931年(昭和6年)に採用したものである。図案を発案したのは東京高等師範学校(現・筑波大学)教授の内野台嶺(うちの・たいれい)。内野は同校蹴球部出身で、先輩に日本サッカーの生みの親といわれる中村覚之助(なかむら・かくのすけ)がいた。 中村は、八咫烏ゆかりの熊野・那智勝浦の出身で、生家は熊野三所権現の氏子であった。 内野がこの図案を選んだ理由は、実のところよくわかっていない。が、日本サッカー界における中村の功績に敬意を表し、出身地に因んだ瑞鳥・八咫烏を図案に採用したのではないかともいわれている。 いずれにせよ、ユニホームに燦然と輝く三本足のカラスは、我らが日本代表の守護神として、次回2006年W杯でも、代表チームを勝利へと導いてくれることだろう。 |