前回は、卑弥呼の墓に関してお話しましたが、掲載後の1998/9/9の日経新聞に、箸墓古墳の調査(住宅と接する僅かな部分のようですが)が行われ、当初から先方後円墳として構築された可能性が濃くなった、と言う記事がありました。そして邪馬台国論争に影響を与えるであろうと解説していました。この事は、『箸墓古墳の卑弥呼の墓説』を弱くすると解釈してよさそうです。このように新しい発見によって、考え方が右に左に揺れるのが考古学の現実です。これからお話をする銅鏡に関しても同じ事がいえるようです。 今回は銅鏡に関する論争のあらましを簡単にお話します。
我が国の弥生時代の墳墓や、それ以降の時代の古墳から沢山の銅鏡が発掘されています。イメージとしては九州地方では、中国の漢の時代の、いわゆる『漢鏡』が比較的多く、畿内では『三角縁神獣鏡』と言われる時代的にはやや新しいい鏡が多く出土しています。勿論これは相対的なもので、三角縁神獣鏡も九州地方でも出土していますし、漢鏡も畿内で出土しています。
さて卑弥呼の鏡とは一体どのような鏡を言うのでしょうか。大正の初め頃より、色々な説があり、畿内から出土する鏡が、魏の時代のものであると言う観点から、邪馬台国は畿内である、と言う説がある程度で、邪馬台国論争に直接的に大きな影響を与えていませんでした。また考古学が邪馬台国論争の中心にはなっていなく、補助的な地位であったようです。
ところが、1951年大阪府和泉市で『景初三年』の銘の入った平縁神獣鏡が、又1972年島根県神原町から、同じく『景初三年』銘の三角縁神獣鏡が出土しました。この結果、それ以前の1909年群馬県高崎市、1917年兵庫県豊岡市で既に出土していた『?始元年』銘の三角縁神獣鏡も『?』の欠落部分は『正』であろうと解釈され、『正始元年』の鏡であると判断されました。ちなみに魏の年号の入っている鏡を紀年鏡(きねんきょう)と言い、現在までに八面出土しているそうです。上記のほかに『景初四年(実在しない年号)』(この鏡が新たな議論を呼びますが、詳細は次回)、『青龍三年(西暦235年)』(これも極めて重要ですが、次回以降)があります。
この紀年鏡の年号は、まさに魏志倭人伝に記述されている卑弥呼の外交記録の年号と同一である為、これこそ魏からの鏡である、として紀年鏡ではないが、類似する三角縁神獣鏡が多く出土する『畿内』が邪馬台国である、と結論づけられたかに見えました。しかし九州論の専門家は反論します。曰く『中国に同じ様な鏡が一枚も出土していない、この鏡は国産品である』、曰く『景初三年の翌年は正始元年であり景初四年は存在しない』、曰く『埋葬品は後世運ばれてきた可能性がある』等々があり、総じて九州説の方々はこれを否定しています。畿内説の方々は、当然の事ながら、紀年鏡の出現を心強く思い、もはやこれまでと決め付けている専門家もおります。しかしながら冷静に見て、それぞれの考え方には、なるほどと納得させるものがあり、国産であるか、渡来品であるかを中心とした論争は続きそうです。まさに銅鏡論議は邪馬台国論争の縮図と化しています。
詳細は次回以降にそれぞれの考え方を整理してお話しますが、今回は銅鏡論争のイメージをつかんでいただく程度にしておきます。過日大和の黒塚古墳から32面の三角縁神獣鏡が発掘されましたが、これを含め、専門家ではありませんが、多少詳しくお話します。