5 魏志倭人伝と考古学
前章までは、邪馬台国を探し求める手段として、直接手法、すなわち方位や距離に関する記述を中心にして、専門家の一般的な意見を紹介してまいりました。当然の事ながら結論は出ていません。なかにはもはや議論の余地無し、『九州のXXである』はたまた『畿内である』
と結論づけておられる人もいますが、一般論として肯定されていないのは、今までお読み頂いた通りです。
それではこの問題は、もはや行き詰まりか、と言えばそうでもありません。確かに今までご説明してきた範囲では、新しい説得力のある説でも発表されない限り、堂々巡りの感があります。そこで観点を変えて研究している分野があります。
一つは魏志倭人伝を考古学との関連で研究している分野であり、もう一つは、我が国最古の書物である『古事記、日本書紀』に伝えられる、我が国の古代の様子と魏志倭人伝の類似点、相違点等から研究しようというものです。現時点において邪馬台国の所在地は永遠のなぞと言われている訳ですから、結局結論には到ってはおりませんが、それなりに興味のあるところです。この部屋の目的である、入門レベルのやさしい知識範囲でお話をします。本章では、考古学との関連分野に関して取上げます。
考古学と関連する記述
魏志倭人伝は、倭人の風俗・産物・生活習慣等多くの記述があり、現在の我々の生活に色濃く残っているものもかなりありますが、これらの記述は倭全体を説明した文章であり、邪馬台国を特定する参考にはほとんどなりません。参考になる記述は、魏との外交、倭の歴史、に関する文章です。
先ず、魏志倭人伝に、考古学によって裏付けされる可能性のある記述にどのようなものがあるかをご説明します。一般的に以下の事柄が注目されています。すなわち、魏志倭人伝は、周旋すること五千余里の記述の後、魏と倭の外交文章になり、以下のような記述があります。
@ | 景初三年(西暦239年)倭の女王が、魏の天子に朝貢したことを伝え、汝が遥か遠くから使を遣わしたことに敬意を表し、汝を『親魏倭王』と為し、金印紫綬(外臣の王にのみ与えられる金印と紫の飾り紐)を与える。 |
A | 使者の難升米(一般にナシメとよんでいる)も遠くからご苦労であるので銀印青綬を与える |
B | 同時に織物多数、五尺刀2本、銅鏡百枚、真珠等をあたえる |
C | 正始元年(西暦240年)魏の帯方郡から使者を遣わし、金、錦、刀、鏡を与える |
D | 正始4年(西暦243年)倭の使者が率善中郎将の印綬を頂く |
E | 卑弥呼死す、径百余の冢(お墓)を作る、殉葬した人奴婢百余人 |
以上が主たる項目です。これらの内、錦等の織物は消滅していると考えられ、又特徴的な説明の無い金、や刀、真珠等もそれ自体では直接邪馬台国と結び付けることは無理があるようです。但し副葬品として出土した時、(例えば卑弥呼の墓と想定される古墳を発掘した場合)これを補強する有力な証拠となることは考えられます。また錦やその他の織物の僅かな残物も存在する可能性があります。
したがって、以上の記述から、考古学の発見に期待できるものは、専門的な難しい事柄を除けば、以下の4点になるのが一般的です。
親魏倭王印 | 魏からもらった金印、銀印の発見 |
銅鏡100枚 | 魏からもらった鏡の発見 |
径百余の冢 | 直径100歩の卑弥呼のお墓はどこか |
当時の倭を描いた地図 | 中国で発見される可能性があるか |
また魏志倭人伝とは無関係に、考古学上で発掘された結果が、魏志倭人伝の生活習慣等の記述を証明しているとき、邪馬台国や近隣諸国に結びつくようなケースが出現しないとは限りません。むしろこの可能性の方が多きかもしれません。大いに期待したいところです。銅鐸、銅矛文化圏、瓶棺、古墳の壁画、人骨の傷痕、環濠集落遺跡からの出土品等、考古学上の総合的な観点から研究されるのが本来でしょう。この分野はそれなりの知識が必要となり、かなり専門的になりますので、この部屋では魏志倭人伝を中心にしたテーマに限定して話を進めます。(入門編を卒業し、更に興味を持ちますとのめり込みます)
結論的に言えば、銅鏡以外は未発見です。銅鏡に関しては新聞紙上で時々発見の記事が掲載されるので、どなたもある程度ご存知でしょう。ところが、発見されたらされたで、これに対して議論百出の状態なのです。以下これらに関して順次お話をして行きましょう。