魏志倭人伝に書かれている行程記事以外の、特徴的な記述からの推測として、最後に戸数に関するお話をします。
再掲しますが魏志倭人伝には以下の戸数記述があります。
対海国(対馬?つまこく) 千戸余
一大国(一支?いきこく) 戸数三千許
末盧国(まつらこく) 四千余戸
伊都国(いとこく) 千余戸
奴国(なこく)百里 二万余戸
不弥国(ふみこく) 千余戸
投馬国(とまこく) 五万余戸
邪馬壹国 七万余戸
まず、戸数記述が信頼できるものかで、専門家の意見はここでも二つに分かれます。、すなわち中華思想の陰陽五行説に基づく奇数中心の記述であるから参考にならない。(1000、3000+4000=7000、、20000+7000+3000=30000のごとくなぜか加算をして1,3,7の数字を作り上げる)(松本清張氏に代表される否定説)また文字を持たないレベルの国が、戸数を把握しているとは思えないので、全くの推測記事である。行程の日数や距離すら信頼できないのに、戸数などさらさら信用できない等云々、総じて記述内容の数字をあまり重要視しない方々は、ここでも同じ傾向にあります。
一戸は3人から25人の範囲?
勿論、距離、方角と同様重要視される方々も多くおいでになります。しかしながら、このテーマに関する研究をされた方はあまりおりませんでした。この問題に対して真正面から取組んだ専門家が『安本美典氏』です。安本氏は邪馬台国論争に関して、あらゆる局面に造詣の深い方で、この分野において第一人者でしょう。
氏はご自身も含め、著名な人口学者の考え方を集大成して『邪馬台国人口論』(1991/9/6柏書房)を完成されました。氏も書かれていますが、この本は邪馬台国研究史上はじめての人口論に基づく邪馬台国論として位置付けられます。本書に因りますと、古代人口学の第一人者は『澤田吾一氏』で、氏の研究成果をベースにして、中国の前漢、後漢、三国時代の人口、人口の激減するケース等から始まり、一戸の平均的な人口を、結論的には4〜5人として、九州島に入る範囲であるとしています。
仮に5人として7万戸で35万人の国が想定されます。平野に住んでいたのか、高地の環濠集落であったのか議論のあるところですが、吉野ケ里遺跡を一つの典型として考えれば、そこで人が生活する訳ですから、食料の確保を含め、かなりの人が住める土地が必要でしょう。
同書にはその他に5名の方の研究も掲載されており、高市純得氏は九州説に疑問をなげており、結局ここでも当然の事ながら決定的な結論は出ていません。本書の詳細な内容を孫引きする能力もありませんので、タイトルの割には内容がお粗末ですが、このテーマに関してはご説明したような書籍があると言うことをご紹介するに止めます。とに角、沢山の図表やデータに基づいた中身の濃い本であることは言うまでもありません。この研究が更に進むことによって、邪馬台国問題が解決の道に近づく可能性はおおいにあるかもしれません。
唯、仮に邪馬台国の7万戸をはじめ、魏志倭人伝の戸数記述が正しいと仮定した場合、イメージ的には九州説より畿内説の方が有利と思われますが、いかがでしょう?
次回からは、魏志倭人伝の記述と、考古学面の関係に入ります。 今宵はこの辺で・・