前回、末盧国 、伊都国の特徴その他を説明しましたが、この特徴を分析し、発表している一つの説をお話しましょう。
新放射状説
今まで幾つかの角度から、諸説をお話してきましたが、各説にはそれぞれ複数の賛同者が存在するため、人名を敢えて書いておりません。またユニークな考えを発表されている独特の固有説は数多くありますが、この部屋は入門編と言うことで一般的な範囲に限定しています。本説は、前回説明した特徴を客観的に分析しておりますので(私めの独自判断)、少数意見ではありますが掲載いたします。
新放射状説の詳細は、『海に書かれた邪馬台国』(田中 卓(たなか たかし)氏著・・1975 (昭和50年)光成社発行)で発表されています。基本的に前回記述した特徴、すなわち最初の本土上陸地点の重要拠点である『末盧国』に官名が 記載されていない、邪馬台国連合の重要な外交拠点である『伊都国』が最少の千余戸である、更に伊都国から、奴国、不弥国への移動手段の記述の無い事、等に注目しています。
結果として、氏は巨視的にみれば、末盧国は要するに、伊都国の一部分といってよい管理下に置かれていたとしています。たとえば東京都の中に武蔵野市が含まれるようなものであると言う考えです。伊都国には世世王が居たわけであり、末盧国を実際上支配下に治めていたと解釈し、前述の違和感を解消しています。その結果人口五千戸余が伊都国全体で、国の長さは五百里程度である。さらに補強する意味で以下の解釈をしています。
一大率が倭の機関か、魏の機関かは別にして、伊都国にあった一大率の記述で『倭の王が洛陽に遣いを出したり、郡の使いが倭国に来るとき、皆津に臨みて点検する』の説明で、『津』とはすなわち港であることに着目し、この地点が末盧国(現在の呼子として)であるわけであり、常に出張していたことになる。したがって、末盧国の呼子あたりから『東南陸行五百里』にあたる伊都国の中心地点、つまり国王の所在地までを指したものと思われる。この場合広い意味で同一国内であろう。としています。
したがって、榎説に言う放射状の出発地点は必ずしも伊都国ではなく、むしろ津の条件から末盧国としてよいのではないかと解釈しています(高橋説等がありますが詳細は省略します・・上記書籍を参考に)。この考え方をとりますと、又新たな計算式が生まれ、伊都国に津があると解釈するわけですから、出発は陸行・水行いずれでも可能となります。特に不弥国(ふみこく)に対しては、ユニークな説として、水行によって海の中道の先端の志賀島を当てています。(志賀島は金印の発見で有名・・この件に関しては別の章で取上げます)
唯、現代の地図で見ますと伊都国に比定されている『糸島半島の前原』付近もすぐ近くは海であり、津を保有できたとも、思われますが・・
狗奴国の所在地
邪馬台国を探すよりも『狗奴国』を探せばよいと言う考え方があるのは当然です。この文字の読み方は通常『くなこく』と呼んでいます。女王の境界の尽きた其の南にあり、男子が王である、としています。そして官名として『狗古智卑狗』(くこちひこ)がおり、女王に属していない、と記述されています。更に正始八年卑弥呼は、狗奴国の男王『卑弥弓呼』(ひみここ)と和しないため攻撃をする、と報告し激励のための詔書等をもらっています。狗奴国は伊都国と並んで魏志倭人伝では重要な国であることは間違いありません。
記述としては以上であり、この文章から、南と言う位置付けや、発音的に熊本県菊池地方、和歌山県熊野地方が候補地として挙げられています。この地方に昔から他とはかなり異なった、風習でもあるのかもしれませんが、結論として狗奴国から探すのは無理のようです。唯、これらの北に邪馬台国が存在したことは明白ですから、参考にはなります。北の方には九州説の代表格の山門郡があり、畿内説の大和地方が厳然とあるのですから、いやはや何とも難しい話です。
以上行程記述以外で参考になる点、に関して説明してまいりましたが、これに関する最後の問題として、邪馬台国人口論があります。