今回から考古学上の個別のテーマについてお話を進めます。
皆さんも学校で勉強したと思いますが、例の福岡県博多湾の志賀島で発見された金印です。中国の史書の後漢書に、『漢の時西暦57年、倭奴国王後漢朝貢、漢の光武帝より金印を賜る』と明記されている金印です。1784年福岡黒田藩の農民によって発見されました。勿論国宝です。(唯発見のいきさつがやや不明確であると言われていますが・・)
この金印は『漢委奴国王』と彫られています。(本物は見たことがありませんが・・)読み方としては『かんのわのなこくおう』と読み、漢の属国である倭の奴(な)の国王としています。ところが近年一部の専門家は『かんのいとこくおう』と読むべきである、と主張しています。直接邪馬台国論争に影響を与えるものではありませんが、興味深い議論です。(伊都国をより重要視するという意味では、かなり関連があることになりますが・・・)
この事から、現在の福岡県博多付近と言われている邪馬台国時代の『奴国(なこく)』又は『伊都国(いとこく)』は、古くから大陸と交流があった事が証明され、この事はある意味で、邪馬台国九州説の基盤と成っています。確かに一世紀の時代以前から、九州と大陸の交流があったことは事実でしょう。しかし三世紀中葉の邪馬台国はやはり九州にあったのでしょうか、果たしてどうでしょうか。
古事記、日本書紀に言う『神武の東遷』(九州から、大和地方へ進出した記録)が本当にあったのか、また何時ごろ行われたのかが議論されるところですが、この事に関しての詳細は第6章でお話しますが・・。唯、銅鏡にも言えることですが、極めて重要なものが、古墳や遺跡から発掘された場合、九州であれば文句無しに九州説の証拠として取り上げられますが、畿内であった場合、東遷に伴って『九州から運んできた可能性がある』と言う説が存在し、厄介な議論に発展しかねません。
したがっていつの日か九州地方から発見されれば邪馬台国論争は終止符を打つでしょうし、畿内から発見されれば、その場所や副葬品から議論されることでしょう。この発見には、卑弥呼のお墓の発掘が大きく関連することが考えられます。卑弥呼のお墓は何処にあるのでしょうか。逆に言えば金印の眠っている古墳が卑弥呼の墓と言えるでしょう。
一方、金印は権力の象徴として使用されたと思われますから、卑弥呼の死とともにお墓に埋葬されるはずがない、という考え方もあります。したがって、死以降も使われていたとすれば、いつから使用しなくなったのが問題となります。少なくとも古事記、日本書紀が編纂された時代は、魏の属国という屈辱から、金印を使用したとは考えられませんから、この間に何らかの形で隔離されたと考えられます。まさか溶かしてしまったこともありますまい。いや、溶かしてしまったかも知れませんね。(この項、一般的な書籍では書かれていません・・たーさんの独断的コメントです)