今回から参考となる、その他の記述について、少し詳しく説明を致します。結果的には益々複雑になってしまいますが・・・。
帯方の東南大海の中に在り
この文章は魏志倭人伝の冒頭に記述されています。唯、この文章を重要視している専門家はあまり居りません。この部屋では、個人的な見解は一切触れませんが、何人かの友人アマチュアとの検討会では常に話題になりますので、敢えて掲載しました。
この記述はソウル近辺か、又は朝鮮半島中部からみて、マクロ的に、倭は東南大海の中に在る と説明しています。大局観的には畿内大和は東南東、北部九州は南南東にあります。したがって曖昧な文章です。既に説明した通り、邪馬台国に至るには、僅かな距離を南東や東に進んではいますが、全体的なイメージとしては『南下』をしています。また次項でも説明しますが、女王国以北の記述が多くあり、これも裏返せば『南下』しているイメージを抱かせます。
にもかかわらず、帯方の南とせず、東南としているのは何故か、やや不自然さが残ります。もっとも狗邪韓国(朝鮮半島の南岸)に行くまで朝鮮半島の西岸から南と東をジグザグ行進すると書かれていますから、この時点で既に南東にきており、以降南下をするのである、と解釈する事も出来ます。一方前述したように、当時の中国の認識が、『南東を南』として45度程度づれていたとすれば、畿内大和はまさに東南となります。同時に九州は南の方角となります。なおこの文章が、倭国全体の総体的な位置か、邪馬台国の位置かは、はっきりしていません。
一方周旋とはどう解釈したらよいのか。これにも周旋と言うのであるから『ぐるりと一周する距離』と、北から南へ『たちめぐるための片側の距離』の二つの意見があります。不思議なことに郡から狗邪韓国迄の七千里と周旋五千里を加えると一万二千里となって、女王国迄は一万二千里の記述と一致します。又この五千里は、海を三度渡って伊都国までが三千五百里で、例の演算式で求めた、千五百里の合計五千里とも一致します。この点から言うと片側の距離とも思えるのですが・・唯、逆に言えば一万二千里と、信憑性の高い狗邪韓国迄の七千里の差を記述した可能性もあり、不思議でもなんでもないのかもしれません。この記述に関してはこの程度です。
残念ながらこの点に関しては、僅かな記述しかないため、論点がほとんど無く、ただ候補地を挙げているのみです。
また生活環境に関する説明文で、中国の海南島(北緯20度前後)と同じであるとしています。これらの記述をそのまま当てはめますと、邪馬台国はかなり南に在り、丁度沖縄当たりと認識していたようにも思われます。これは邪馬台国への方向が全体に『南』傾向にある記述とイメージとしては一致しているようです。
この文章の『冶』の字は実際の原文では『治』となっておりますが、間違いであろうと言う説が大半です。しかし中国の故事に因んだ記述であり、『治』が正しいと言う学者もいます。解釈としては『会稽の東方を治めた実績』とし、この場合は、北緯30度辺りとなるようです。この東であるとすれば、丁度屋久島と奄美大島の中間辺り が該当します。
いずれにしても、魏志倭人伝から、当時の中国の人々が、実態は別として、これらの地点から北へ五千里の範囲が倭であると言う認識を持っていたことが想定されます。問題は、認識していたことと実態がずれていているのかどうかではないかと思えるのですが・・・。勿論ずれはあったと思いますが、畿内説、九州説ともにかなりずれています。