前回に引き続き、方位の解釈の後半として、何故南を東と解釈できるかの諸説についてお話しましょう。すなわち前回項目で記述したBとCのお話です。基本的には南と言う文字は間違いなく『南』であるが、結果として現在の位置で言えば、それは東に相当すると言う解釈です。
E 東南、至る奴国(なこく)百里。
F 東行、至る不弥国(ふみこく)。百里。
G 南、至る投馬国(つまこく、とまこく)。水行二十日。
H 南、至る邪馬壹国水行十日、陸行一月。
すなわち、伊都国から邪馬台国を目指して出発する場合の、最初に目指す方位が記述されているのである。したがって邪馬台国自体は必ずしも南とは限らない。という解釈です。確かに『至』と言う文字は、これからどの方向に行けばどこそこに到着します、と言う意味にとることもできます。現在でも山歩きなどで、分岐点や辻における道標等に見ることがあります。故にこの説を唱える方々は、上記E〜Hにある方位表現は重要ではないとし、南にこだわる必要はなく、結果的に邪馬台国は東、すなわち畿内大和である、としています。しかしこの考えを発展させますと、邪馬台国は方位に関しては何処にあってもおかしくないと言うことになります。
南に対する認識は当時と現在は異なる
本説は南の文字それ自体は正しい記述であるが、当時の中国の倭国に対する認識は、『朝鮮半島から南の方に広がっている国であると考えていた』としています。これらを立証するため幾つかの根拠を挙げて説明しています。誤った認識の原因も専門家によって異なり、大きく二つの考え方があります。
第一の考え方は、中国、朝鮮に残る古地図の調査結果からの解釈です。現存するこれらの旧い地図として『801年〜 1556年頃までに書かれた地図』を数多く挙げて、それらがすべて『九州を北にして、南に日本列島が下っている』と言う事に注目し、結論として『倭国は南北に長い国』と認識していた、としています。事実市販されている書物にはいくつかの例としてこれを証明する『古地図』を掲載したものが見受けられます。また詳しくは第三章でお話しますが、中国大陸のどの地点に対応するかの記述が『魏志倭人伝』にあり、それによりますと『会稽・東冶の東に当たる』としており、この地点はかなり南に位置します。(会稽東冶や海南島との関係は後述しますのでここでは深く触れません) この考え方はそれなりにかなりの支持者を持っています。
第二の考え方は、倭国を訪問したことを前提とした『訪問の季節』から分析した結論です。この考えによりますと海上気象の安定からして、『夏に来た』としています。この考えに対しては異存のある専門家は見受けられません。この夏の特徴を考慮すると以下のような結論になるとしています。
すなわち前提として『太陽の出る方向を東』としたとき、夏は実態としては、北東から太陽が昇る。したがって、これを東の方と思えば、南は実際には南東と思ってしまう。結論として『45度程度の誤差がある』よって実態としての東を南と理解したのではないか、という説です。更に朝鮮半島から海を渡り、対馬、壱岐、松浦半島に行く方向は南としているが、対馬海流の流れを考えると、東に流される事実があり、そのため舳先の方向は常に南を向いている、よって、南と表現しているが、地図上の実態は南東であり、それ自体45度の誤りがあると指摘しています。
その他、伊都国を中心に、一応位置が比定されている奴国・不弥国に対する記述方位が90度の誤りや、場合によっては135度相違する例を挙げこの考えを補強しています。一方当時の航海術はそのような幼稚なことであるはずがない。少なくとも大陸と九州を渡航できる技術を持っていたのであるから、もっとも重要な方位認識は正しく把握しておる筈である、と言う反論もあります。
以上方位に関するお話をいたしました。行程、方位ともそれぞれ諸説ありですが、この辺で皆さん、全体を整理してみてください。そして一応ご自分の説を、一つだけ組み立ててみたらいかがでしょうか。