前回説明した通り、郡より女王国に至るにはの萬二千里と、伊都国迄の合計萬五百里の差は1500里です。(順次式の場合1300里) この数値に対する考え方も大別して二つが存在します。考え方の相違は1500里に対するアプローチの相違でもあります。以下に基本的な二つの考え方を記述します。
すなわち水行十日、陸行一月の所要日数が、1500里の中に入ることを前提にしています。(順次式の場合は投馬国までの二十日を加算して水行三十日、陸行一月となる) また当然のことながら、この考え方をとる場合は、日数記述は原則として伊都国からの所要日数であると言う解釈です。
まず『1』の立場を説明します。前述していますが、伊都国迄の位置に関してはほぼ意見が一致しています。対馬、壱岐は当然として、末盧国は松浦半島の呼子付近、伊都国は糸島半島の前原付近です。また奴国は現在の博多近辺(以前から那の津といわれている)です。(上記の各地に対して異説も当然ありますが・・)
魏志倭人伝の記述では各島間を千里余り、末盧国〜伊都国を五百里としています。各島間は実際の距離ではかなりの相違がありますが、対馬〜壱岐が60km程度、呼子〜前原は色々な計り方が有るが30km程度として、これらの値から総体的に算出すれば充分であると言う考え方です。
すなわち伊都国(前原)を中心としてせいぜい半径100km程度の範囲である。と言う考え方です。この値は前述の『魏晋朝短里説』で言う一里
60メートル〜90メートルで当てはめますと、90km〜140kmでほぼ数値的に一致します。結果的にこの場合は九州説となります。(含む山口県の西部説) しかしながらこの距離を、水行十日、陸行一月もかかるのか?と言う疑問を持つ人々も多くおります。そこで陸行一月は誤りであり、『陸行一日』であろう、と修正をする専門家もおります。また有明海まで船で行き筑後川を溯る等の説もあります。
次に『2』の考え方を説明します。この考え方の場合、先ず前提として、伊都国迄10500里を何日かかって到着したのか記述がない為、暗黙の内に、かなりの日数を必要とするであろうとしています。その上で『唐六典』等、各種中国の文献から、一日の歩行里数が50里、水行が45里であると解釈しています。したがって1500里はおよそ30日で、OR説をとり、陸行すれば一月となり、見事に合致すると言う見解です。
同時に一里435メートルとして、1500里はおよそ650キロメートルとなり、九州から畿内迄の現実の距離とほぼ一致します。結果的に伊都国から前述の日数を要し距離も適当であることから、この解釈は畿内説となります。
水行十日に対して、一日45里・・450里およそ200キロメートルに関しては、特に力説している意見が見受けられないのが不自然ですが・・。
以上、距離に関する大まかな論点をお話してきましたが、それぞれ説得力と問題点を有しており、決定的な状態ではありません。その他、この部屋では省略しますが、以下の様な事項に関しても研究が行われ、その結果を自説の補強材料としています。
◎ 当時の気象状況と海岸線の関係
◎ 現在の道路知識で判断する危険
◎ 風、汐待ちや、使者に対する途中の国の儀式によるロス
◎ 陰陽五行説との関係
◎ 直進とジグザグ水行の距離の数式検討
◎ 航海術上からみた潮流との関係
等挙げればきりのないほど、色々な角度から研究した書籍が数多くあります。