前回迄は行程全体の読み方に関する色々な論点を説明してきましたが、今回から距離に関する専門家の考え方をお話します。ここで重要なのは、『魏志倭人伝』だけでなく、東夷伝や魏志、或いは三国志全体から多くの情報を得る事が出来る点です。大陸を中心にして、その所在が現在明確になっている箇所が多く存在します。専門家はこれら明確になっている箇所との比較論を中心に自説を展開しています。
1 詳細に議論すべき記述ではない。
2 重要な要素である。
先ず『1』の立場の考え方を説明します。この考えに立つ専門家の意見を以下に挙げます。
◎当時の魏の一里はおよそ435メートルであり、 ソウルから5220キロは荒唐無稽である
◎当時の倭に対する知識、認識からして里数を、 正確に把握しているはずがない
◎西方の大月氏国も萬二千里であり、遠方であることの表現である
◎同時に東西の、大月氏国、邪馬台国を戦略上二つの大国とした、約5倍程の距離の誇張がある
◎倭への使者の労苦は大変であり、誇大に説明している
これらを証明する為に多くの文献を分析しています。この部屋では分析の詳細な内容は省略します。結果として、この立場に立つ専門家は里数に関しては、残の千五百里も含め、すべて総体的な参考値であるとしています。したがって、日数表記に関して重要視する結果となります。
すなわち、郡(ソウル)からか、或いは伊都国からかの相違はありますが、記述の日数を要して到着するところが、邪馬台国であるとしています。(後述しますが、一日どのくらいの距離を歩行するかで求めています) 日数のみを信頼することに違和感はありますが・・。結果として郡(ソウル)からの場合、畿内説、九州説の考え方が存在し、伊都国からの場合、畿内説が有力となります。
次に『2』の立場の考え方を説明します。この考えに立つ専門家の意見を以下に挙げます。
当時の魏は短里であるとした『魏晋朝短里説』を強調しています。複数の専門家が多くの文献(東夷伝や魏志全体)から調査し、人によって相違はありますが、この時期の一里は60メートル〜90メートル前後である、としています。萬弐千里をマクロ的な数字と考えて、郡から女王国(邪馬台国)間は700km〜1100km程度となり、九州説がやや有利となります。
更に『2』の立場の場合、萬弐千里以外に、1500里を重要視しています。すなわち郡より女王国に至るには萬二千里であり、伊都国迄の合計萬五百里の差1500里を重要視していると言うことです。