伊都国迄と、以降では記述の形式が異なる。
伊都国以前 →方位、距離、国名
伊都国以降 →方位、国名、距離又は日数
この記述形式から推定して、伊都国迄は、記述の順序通りとして、伊都国以降は伊都国を起点として、それぞれの国に対する方位等を個別に記述したもの、すなわち放射状に書かれたと解釈すべきであるとしています。この説は以降の研究に大きなインパクトを与えました。更に専門家の一部の方は、『至』の文字に注目し『伊都国のみ到』の文字が使用されている事実等を考慮し、次のように整理しています。
伊都国までの至るは『XX国に至り、XX国に至り、伊都国に到る』、の如く過去形であり、『伊都国に到る』は現在完了の意味である。伊都国以降は『南、XX国に至る』の未来形である。すなわち伊都国までは見聞の事実、以降は想定記事からなっているとしています。事実伊都国の手前の末盧国迄の記述には、風景等の説明がありますが、以降には何ら説明がありません。また重要な二つの国の『投馬国』と『邪馬台国』に対して、距離数の記述がなく、単に日数で書かれています。以上の観点から、現時点の傾向としては、パラレル説がやや有力な情勢です。
実はお気づきの方も多いと思いますが、この解釈によって邪馬台国の相対位置が大きく変化します。もしシリアルであるならば、邪馬台国は『水行二十日の投馬国の更にその先、水行十日、陸行一月の地点』となります。すなわち水行二十日の投馬国迄の距離が加算されるかゼロかと言う相違が発生します。放射状説では伊都国からみて、『投馬国』と『邪馬台国』はそれぞれ独立した位置にあり(遠近も含め)トータルな距離の面からも、九州説に有利となります。なお『投馬国』に比定されている主な所として、以下の箇所があります。宮崎県の妻、鹿児島県の都万、広島県の鞆、島根県の出雲等です。(その外にも諸説がありますが・・)
それでは『水行二十日』や『水行十日、陸行一月』はどのように解釈すればよいのでしょう。
問題は『邪馬台国』の水行十日、陸行一月の解釈です。一つは『水行を十日し、更に陸行一月』で到着する、と解釈しています。もう一つの解釈は『水行すれば十日、陸行すれば一月』で到着とし、水陸どちらでも可能としています。前者の場合、邪馬台国は『内陸』に限定されます。後者の解釈では『内陸、海岸線』のいずれでもよく、当然のことながら、畿内説では前者、九州説では後者をとっている方が多いようです。
しかし常識的に読めば、前者が一般的な読み方であり、もし後者のような意味の表現をする場合には、『若しくは』、『乃至』、の如き記述があるのが普通ではないか、と言う意見のほうがやや優勢です。更に、同じ場所に行く場合の二つの方法として、水行十日と陸行一月が、バランスのとれた数値であるか、も疑問視されるところです。後者の考え方は自説に導く為、無理にこじ付けたと言う意見がかなり存在しています。
この問題は、一箇所『邪馬台国』にのみ現れる記述であり、重要ではありますが、OR説をとれば距離が多少短縮される結果となる程度で、距離よりもむしろ邪馬台国を『内陸』に限定するか、『内陸、海岸沿』の何れでもよいか、に影響を与える事項のようです。以上を整理しますと以下のようになります。
@ | 伊都国以降もシリアルに進み、所要日数はANDである。 | 投馬国迄の水行二十日も含み、その先となり邪馬台国まで最長となる |
A | 伊都国以降もシリアルに進むが、所要日数はORである。 | @に近く距離もかなり長い |
B | 伊都国以降は放射状であるが、所要日数はANDである。 | 投馬国迄の水行二十日は無関係で、かなり短い |
C | 伊都国以降は放射状であり、所要日数はORである。 | 伊都国から水行二十日又は陸行一月で最短となる |
以上は伊都国を起点とした考え方として整理してみました。しかしながら、次回にお話しますがもっと複雑な解釈をする専門家もおります。