今回から論争の具体的な内容に関して説明してゆきます。本日のテーマは魏志倭人伝の信憑性の問題です。文章は前回からの続きの形をとります。
晋王朝は魏より禅譲されたと言う事から、一応三国時代の正統王朝を『魏』としておりますが、この時代の国史は正式には『魏志・呉志・蜀志』の3志が存在します。魏志倭人伝と言われている文章はこの中の魏志に記述されています。
魏志はまず『本紀』、『列伝』があり、続いて『外国伝』が書かれています。この『外国伝』の、『匈奴伝』等諸外国伝に引き続き、最後に『烏丸・鮮卑・東夷伝』が書かれ、そのまた最後、すなわち最後の最後に『倭人条』として書かれています。したがって正しくは 魏志・東夷伝・倭人条 といい、国としての記述ではありません。いわゆる人のかたまり的な取り扱いです。但し、本書の冒頭に『島をもって国邑(こくゆう)(クニとムラ)をなす』と言う記述がありますから、実態としての国があるとの認識はあったといえます。
歴代の王朝はその都度、古来からの史書を受け継ぎ、新たに編纂しますが、以前に書かれた文章は当然のことながらこれを尊重し踏襲します。しかし部分的にどうしても誤りと思われる事柄については、修正がなされるケースがあるようです。私達が読む18史略や24史等の史書は、詳しくは解りませんが、それぞれの史書が最終版として、整備されたものでしょう。 今日伝わる『魏志倭人伝』(以降便宜上左記の表現とします)は、12世紀宋の時代に編纂された紹興本(1131−1162)と紹熙本(1190−1194)があり、忠実に魏志を尊重し書き写されたとしています。邪馬台国議論は、この記述内容を中心として議論されています。それ以前の書物は史書としては現存していないようです。
しかし、現存はしていないようですが前身の書物として、『魏書(王沈著)、呉書(葦昭著)、蜀書(王崇著)』の3書があったといわれています。同時に、史書以外に倭に関する文章が『逸文』として存在しています。以前のものとして 『魏略』、『広志』、『前漢書』、裴松之(はいしょうしと読んでいます)と言う人が注釈を入れた『裴松之注』等 が逸文として『翰苑』と言う本等に残っています。 また書かれた順序は後になるのですが、時代的には少し前の事を書いた『後漢書』も存在しています。更に呉書にも倭人に関する記述と想定出来る記述が多少あります。これらの文章から専門家は『魏志倭人伝』が書かれたプロセスを、おおよそ次のように考えています。
先ず、『王沈』(おうしんと読んでいる)が書いた『魏書』をオリジナルとし、『魚豢』(ぎょかん、又はぎょけんと読んでいる)と言う人が記述した『魏略』を参考にしながら、最終的に『陳寿』(ちんじゅと読んでいる)と言う人が三国志全体を含む『魏志』を編纂した。その後、12世紀に紹興本、紹熙本にコピーされたものである。以上のようです。したがって、この文章自体が約800年後のものと言うことになります。この間、誤植などがあったかどうかも議論の一つです。