最初の出会いは、1965年(昭和40年)にたまたま読んだ『まぼろしの邪馬台国』講談社版・宮崎康平氏の著書でした。 (その後改版され1980年(昭和55年)に『新版まぼろしの邪馬台国』となって出版された)この本によって、邪馬台国に関心を持つアマチュアが急増したといわれています。今セミプロといわれている著名な方々も多いようです。それほどインパクトのある書籍でした。趣味は結構多種多様ですが、新たなもう一つの、人生の楽しみを与えてくれた上記の本に心から感謝している次第です。
私はこの部屋で自説を書こうとは思っていません。また自説を掲げるほどの見識もありません。この欄では、江戸時代から本格的に研究されてきた邪馬台国の所在が
何故特定できないのか
どのような議論があるのか
を中心に、順次書き下ろして行こうと思っています。なお記憶違いその他間違いもあろうかと思いますが、入門書と言う意味でご容赦下さい。同時にご指摘頂ければ幸いです。
なおワープロの変換機能、および手間暇の関係で、旧字で表現していない個所が出てきますがご容赦下さい。本当は字体は極めて重要な事なので、本格的に興味をお持ちになった方は、市販の書籍を参考にして下さい。結果として、皆さんが邪馬台国問題に興味をお持ちになり、ご自身の新しい邪馬台国を導き出して頂ければ幸いです。先ず最初に、邪馬台国論争とはそもそも何なのかを説明し、次に大まかな論点を整理してみることにします。
2〜3世紀中葉の時代は『三国時代』といわれ、魏、呉、蜀の3国が鼎立していた時代です。秦の始皇帝によって、一旦統一された中国が、前漢・後漢の時代を経て再び3つに分裂し、覇を競っていた時代です。ご存知の通り、中国では、時の政権が常に『国史』を編纂しております。三国時代が終わり、晋の時代となった西暦280年代の中頃に、俗に言う『三国志』が編纂されたました。この書物に関する位置付けや著者その他詳細に関しては、論点の一つでもありますから、後程少し詳しく説明しますので、ここでは単に『魏志倭人伝』としておきます。
この『魏志倭人伝』文中の一部に、倭人の住む国々と、女王(卑弥呼)の居る邪馬台国への道程を説明した重要な記述があります。(勿論それ以外も重要な記述ですが・・)江戸時代以降現代まで、それぞれの時代の学問と知識で常識的に忠実に解釈しますと、邪馬台国は、『九州のはるか南海の彼方』に存在した(存在する)事になってしまいます。
しかしその方向にはそれらしき島も存在せず、また地震等によって沈んでしまったと言う記録もありません。かつて陸地であったと思われる海上地点も、現代の地理調査では存在しません。また同時に、一般論としても、大和朝廷の前身と思われる邪馬台国は『南海のはるか彼方』ではなく、『日本国内の本州、九州の何れかにあったであろう』と考えられています。 (中には『四国』『沖縄』『インドネシア』『メキシコ』『北海道』等の説を発表している方もおりますが・・)
それでは『魏志倭人伝』は嘘を書いているのか、無視してもよいのかといえば、決してそのようなわけにはゆきません。当時文字など持たなかった?2〜3世紀の我が国の事を、記録した最も貴重な文献であり、古代日本を知るうえで欠くことの出来ない国宝以上の文献であるのは国民一般の知るところでしょう。
しかしながら結果として、原文に忠実であれば、どうしても九州や本州には到着しません。前述の通り『九州のはるか南海の彼方』となってしまいます。故に原文そのままでは特定出来ないわけです。(当然の事ですが、原文には邪馬台国に到る迄の方向、距離、所要日数、途中の国々の名前や戸数等が記述されています)したがって、邪馬台国と言う国が存在したことは間違いないとして、ではいったい何処にあったか、を特定しようと言う研究が江戸時代から本格化しました。研究の結果が一つであれば問題が無かったのですが、大きく2つの考え方に分かれました。有名な『畿内説』と『九州説』です。また『九州説』の場合、その場所が研究者によってかなり相違しています。
何れの説にしても、『魏志倭人伝』をそのまま忠実に解釈するのでは、自説の結論を導き出せません。そこで各説とも、仮説を立てたり、ある記述に対して独自の解釈をして、立証してます。
この仮説や独自の解釈を巡っての論争が、いわゆる『邪馬台国論争』なのです。
1 『魏志倭人伝』の信憑性に関するの論議
そもそも書いた人は邪馬台国に行ったのか
事実のみで想像、推測はないのか等
2 方角や距離を中心とした記述の解釈の論点
距離の記述をどう解釈するか
一里とは何メートルを指すのか
方向の南の文字が東と言うように誤植は絶対にないのか
所要日数の1月は1日という事はありえないのか等
3 全体を通しての読み方、解釈の諸説
当時の方向感覚に現代との相違はないのか
難解な文章はどう読むべきか
例えば、一大率とは何か、倭の機関か魏の機関か
色々の論点がありますが、大きく集約すると以上のようになります。特に2項に関しては複雑多岐にわたり、これらを補足するため以下の観点からも議論があります。
4 『魏志倭人伝』の記述と考古学上の発見との関連
銅鏡に関する記述と、発掘された鏡の関連
卑弥呼のお墓と、古墳の関係等
5 神話や日本書紀との関連した解釈
卑弥呼と天照大神との対比
神武の東遷と大和朝廷の関連