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『暝い海』 一点の曇り
広重に関する疑問

 このところ映画の話題などがあるが、比較的静かな藤沢周平の世界が続いている。そんなことから、藤沢作品で評価の高い短編をいくつか再読している。10作品ほどを時間をかけてじっくり読んだが、やはり初期の作品ほど、藤沢周平らしいより深い味わいがあるように思えてくる。このことは一般論としてもいえるようではあるが、やはり処女作品をはじめ初期の作品には、著者の作品に対する真摯な姿勢が窺われ、無駄を省き、推敲された秀作が多い。

 文芸評論の学問や知識など持ち合わせていので、作品評などおこがましいことであるが『暝い海』・『暗殺の年輪』は藤沢作品のベスト5に入る作品ではないかと、素人の一ファンながらあらためて思う昨今である。特に『暝い海』はオール読物新人賞を受けた作品で、藤沢のデビュー作であることはファンの知るところである。

 さて、この『暝い海』・・・ご存知の方も居るであろうが、ある一点に関してかなり厳しい批判を受けた経緯がある。ある一点とは「安藤広重」という表現である。藤沢はたしかに一箇所で「安藤広重先生」という書き方をしている。

 別冊宝島藤沢周平」(964)(2004/3/3発売)の中の「藤沢周平と浮世絵」で、浮世絵に造詣の深い松井英男氏は、『安藤広重・・・これは今風に言えば、本名と芸名をあわせたような表現で、この様な人物は浮世絵の世界には存在しない。浮世絵の世界では歌川広重である』と言う趣旨の文章を寄せている。確かにその通りであり、看過出来なかったのであろう。ムック本などでは、辛口の批評などは全くといっていいほど無い世界が普通であるのに、ある意味新鮮な刺激を受けた記憶が残っている。同時に「あの藤沢周平が・・・」と、心に引っかっていた事も事実である。

 あの精緻な作品を書く藤沢にそのような誤りが何故あるのだろう。歴史小説に向かう藤沢の姿勢からは、考えられないことである。しかし事実は事実である。時間はかなり経過してしてしまったが、あらためて本作品を再読して、この問題を自分なりに整理してみたわけである。結論として藤沢は間違ってはいないのではないか、という想いに到ったのである。以下素人が導き出した答えである。

 「安藤広重」と表現されるシーンはただ一箇所、嵩山房の書斎で、北斎が広重と初めて会う場面である。版元の新兵衛が「ご紹介しましょう。こちらが高名な北斎先生。こちらはいま評判の安藤広重先生ですよ」と藤沢は書く。この文章が批判の対象となったのである。確かに安藤広重である。しかし字面だけで単純に判断して良いのであろうか。

 新兵衛は、北斎が広重を快く思っていない内心を知っている。風景画は俺だ、青二才のちょっと出が・・・そんな日頃の北斎の心情を読んだ新兵衛は、北斎をおもんばかったのではないか。未だ半人前扱いをしているが如く装い、正規の画号で紹介せず駆け出し絵描きのような表現をしたのではないかと推測する。広重もまた37歳も年上で高名な北斎の前ではそれをやむを得ず納得するであろうと、広重に気を遣いながらも腹を決めて・・・。すなわち藤沢は意識的にわざとこの表現をしたのであるまいか。

 北斎72歳、広重35歳頃の対面である。実に巧みな紹介の仕方である。もしこの推測が当たっているとすれば、藤沢周平はなんとも深い作家ではないか、見事な表現ではあるまいか。(多少誉めすぎか)

 広重は、一幽斎・一立斎等と歌川以降何度か改名をしている。本作品でも栄泉から「木曾街道六十九次」を受け継ぐ場面でも、藤沢は「一立斎」と表現している。更に言えば広重を主人公にした『旅の誘い』では、冒頭から「一立斎広重現わる」とか「一幽斎描き東都名所」と書き、時代と共に変化する画号を巧みに使い分けている。これだけ拘っている藤沢に「安藤広重」のような過ちは考えられないのである。些かファン独特の我田引水かもしれないが、再読しての雑感である。

 この問題?に対して既に何らかの考えを示し、対応がなされている場合はご容赦願いたい。尚幻の短編集「浮世絵師」においても同様の表現をしている。(ここでは北斎は歌川が嫌いだと弟子に言わせる)

2009年11月記述

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