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幻の短編と『義民が駆ける』


 幻の短編集の作品で、『上意討』と『無用の隠密』を読んでいて、ふっと気になる人名があった。二つの作品はいずれも庄内藩の歴史的な事柄を背景にして、江戸時代初期(松平信綱)と中期(松平定信)の頃の物語として書かれてはいるが、著者の創作が多分に入った歴史創作作品であろうと思っている。気になった名前とは『上意討』に出てくる「松平甚三郎」・『無用の隠密』の「白井矢太夫」の二人である。どこかで見た(読んだ)事のある名前のような気がする・・・。     

 藤沢作品で思い当たる作品は「義民が駆ける」である。しかし本作品は時代が更に下って、江戸後期(水野忠邦)の話である。それはさておき、早速読み出してみたらやはりこの二人の名前が登場していた。

 「松平甚三郎」この名前は庄内藩初代から代々家老職の家柄として続く名門の名前である、と著者は記述している。彼は本作品『義民が駆ける』でも国元で藩の重要な人物として活躍している。別の作品『長門守の陰謀』にも登場する有名な人名であった。(勿論名前だけが踏襲され、人は異なる)したがって「松平甚三郎」という名前は、庄内藩歴史小説では常に登場する人物であった。更に言えば短編『ただ一撃』にも登場していた。

 一方の「白井矢太夫」は『義民が駆ける』の中で、寛政の改革の頃(すなわち「無用の隠密」の時代)に有能な郡代として活躍し、後に藩の執政として参与した人物として登場している。どこかで見た人物として気になっていた、二人の名前の出所が判明して、何となく心安らかである。(歴史小説はこのホームページの登場人物情報では対象外としている)

 それにしても藤沢周平という作家の、引き出しの多さには驚くばかりである。『義民が駆ける』は1971年オール讀物新人賞受賞後、本格的作家として初めて書いた長編歴史小説である。本作品によって歴史小説家としての地位を確立したと言っても過言ではあるまい。

 この大作を再読すると、改めて庄内藩の史実を事細かに精査していることに感心をする。そして実に面白い作品である。勿論著者が庄内地方出身ということから、幼少の頃より関心を持っていたであろう事は推測されるが、その程度のことではこの様な作品は書けまい。同時に本作品は藤沢文学全体の原点ではないだろうか、とさえ思える。したがって『義民が駆ける』執筆に際しては、かなりの時間をかけて調査をしていたであろう事は間違いあるまい。

 一方、幻の短編『上意討』と『無用の隠密』は1963年前後の作品である。この無名時代の作品に、上記二人の名前が登場すると言うことは、既に庄内藩の歴史を自分のものとしていたことになる。驚くべきことである。そのように考えると、サラリーマン時代から並々ならぬ研鑽をしてこられたのであろうが、八年間の療養時代という悪夢のような時間を、天与の時と思い直し、多くの引き出しを持ち始めたのではないか。いや絶対にそうであろう、全く以って凄い人である、と確信するたーさんです。同じような観点から長編歴史小説『密謀』と『残照十五里ヶ原』『忍者失格』の二作品も関連して読みたい作品である。
蛇足ながら藤沢文学に関心のある方にとって『義民が駆ける』は必読の作品であろう。(近書では講談社文庫)

ご意見その他は  たーさん  迄