前回は、ベースとなる日本書紀が力説している古代大和朝廷の成立に対する内容をお話してきました。これに対して古代天皇が信じがたい高年齢である、神功皇后を無理矢理作り出して卑弥呼に想定している、斉明天皇(37代)の九州行きをコピーしたものである、東征と思われる記述が複数ある、等々多くの批判があり、ほとんど全ての学者、専門家が記紀を全面的には信じておりません。(矛盾点として指摘されている具体的な事柄に関しては、ここでは省略します)今回は記紀に対する専門家の、基本的なスタンスのお話をします。先ず、少し基礎知識の勉強する事にし、その後で整理します。
記紀の成立
一方日本書紀は舎人親王(トリネシンノウ)、太安麻呂によって中国の史書にならって、勅撰の正式な歴史書として、古事記より少し遅れて、元正天皇(44代)の時、西暦720年に成立しました。古事記が神代の時代から、推古天皇(33代)迄3巻、日本書紀が同じく神代の時代から持統天皇(41代)迄、30巻で成っているのは既に述べた通りです。元は日本紀(にほんぎ)と言っていたようです。邪馬台国の時代から凡そ480年後の事です。人名の一部に相違があったり、片方にしか記述されていない等の相違がかなりありますが、その特徴も既に述べた通りです。
日本書紀の年代表記
神武天皇の即位は紀元前660年と言う事になっており、邪馬台国関係の書籍にもよく登場します。先ず年代に関する記述についてお話します。ご存知の通り、古事記にも天皇の没年等の注記がありますが、日本書紀は、神武天皇紀から各事象に対して、年月日が記述されています。即位前の時代は『干支』表現(例えば・・己未年春二月壬辰朔辛亥)、即位後及び以降の天皇は、天皇の即位を元年として表現(例えば・・七十有六年春三月甲午朔甲辰)しています。前後では年度表現のみ変わります。したがって仮に、記述されている年月日が正しいものとすれば、或年(我が国では推古天皇の9年、西暦601年・・詳細次項)を起点として、これを溯る事によって西暦年度を求める事が可能です。(但し60年の単位で誤りが発生しますが・・詳細後述) 神武天皇の即位が紀元前660年であると言われている事、及び国民の休日である『2月11日が建国記念日』である根拠は以下のような理由からと言われています。
神武即位・紀元前660年の根拠
ここでご存知とは思いますが、先ず十干十二支について簡単にお話します。十干とは下記の十種類を言います。
甲(きのえ)・乙(きのと), 丙(ひのえ)・丁(ひのと), 戊(つちのえ)・己(つちのと),
庚(かのえ)・辛(かのと), 壬(みずのえ)・癸(みずのと)。
十二支はご存知の通り下記の12種類です。
子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥 いわゆる ね、うし、とら・・いのししです。
それぞれの文字の意味や謂れは、ここでは省略しますが、十干十二支とは、年の表現を二文字で表し(例えば甲子)、一年毎に十干と十二支を一つずつずらして行く方法です。1998年は戊寅、1999年は一つずつずれて己卯、西暦2000年は庚辰となります。このルールは月、日にも適用されます。すなわち10と12の最小公倍数は60ですから、60回で1セットが終了し、61回目に元の状態に戻ります。年で言えば61年目(還暦と言うのはご存知の通り)、月で言えば61ヶ月目(6年目の最初の月)、日言えば61日目と言う事になります。すなわちこの単位で年月日が繰返されます。
さて神武天皇即位が紀元前660年の根拠は次の様に言われております。中国には辛酉革命思想と言うものがあり、辛酉(かのと、とり)の年は革命を想定する年であるという考え方です。そして60年を一元として、21元(60X21=1260年)を一蔀(いちぶ)として、一蔀単位の、辛酉の年に大革命があると言う思想です。この思想の影響を受け、推古天皇(33代)の9年、辛酉の年(西暦601年)を起点として、1260年溯ると、それは丁度西暦前660年となる、としています。この考え方は一説によりますと、摂政として推古女帝を補佐した、聖徳太子の考えによるものとあります。専門家の皆さんも考え方には異論がないようです。(但、考え方だけで、−660と言う年に関してはどなたも信じていません) 私は、神武(初代)から崇峻(32代)迄の在位年数を加算して確かめてはいませんが、凡そ32代(神功皇后の摂政記を入れると33代)で1250年ですから、一代当たり平均在位38年と言う事になります。天皇の崩御年齢が実に不自然な、百歳を越えるケースが多くあるのは、1260年に合わせる為であるとしています。また前述したように、60年単位で同じ表現が繰返される訳ですから、60年、120年の単位で考え方に相違がある議論がなされています。(具体的な事柄に関しては後述します)
さて、専門家の皆さんは、日本書紀に書かれている年月日をどのように捉えているのでしょうか。結論から言えば、欽明天皇(29代)以降は信頼できるとしていますが、それ以前の関しては『天皇の在位年数』はほとんどの方が信じていません。理由は前述の通り、論理的に導いた数字で、あり有り得ないと考えるからです。しかし、『事象に対する年度』は推古女帝の時代から逆算できますので、記紀の言っていることが西暦何年に該当する、と言う意味で研究に活用されています。又古事記に『分注』として記載されている天皇の『没年干支』に関しては、比較的信頼をして、議論・検討がされています。(勿論否定している学者もおります・・)
分注とは本文のほかに、一書に曰く等の形で注記されている文章で、古事記、日本書紀共に存在します。特に日本書紀には多く記述されており、神功皇后紀における分注は有名で、邪馬台国研究でもよく登場します。(詳細は後述) この分注は、同時に書かれたと言う説と、後で追記された説と意見が分かれており、この問題も重要です。私の読んだ書籍の範囲での研究者の判断は、やや同時に書かれた説が多いように思えますが・・。それはさておき、古事記には分注として、崇神天皇(10代)から推古天皇(33代)までで、15人の天皇に没年干支記述が有ります。この没年干支を中心に、記述の有無による天皇の『実在・架空の議論』や、西暦換算をして、各天皇が実態として、『いつ頃の人物』であったかを見極めようとする研究があります。したがって記紀と邪馬台国を結び付ける重要な事項は、事象の年月であり、邪馬台国や卑弥呼と関連すると思われる事象内容と言うことになります。
ところで、我が国に暦が入ってきたのはいつ頃でしょうか。世界大百科事典によりますと、『中国の暦法が日本に伝えられたのは6世紀ころと考えられている。《日本書紀》には553年,欽明天皇の14年に百済(くだら)に対し暦博士や暦本を送るよう要請し,翌年2月に暦博士らの来朝が実現したとの記事があって,これが日本の文献に現れた暦の文字の初見である』としています。したがって過去の記憶が正しく行われていれば、記紀の作成に当たって変換は出来たと思いますが、紙も存在しない(木簡での記録はいつ頃か始まったのか分かりませんが・・)、まして文字ももたない時代の年月日をどのように記憶していたのか、私には知識がありません。 唯、古来からの伝承・口伝は、そういう時代であるから、現在の我々では想像できないような技術があったと、推測する専門家もおられます。
何れにしても、6世紀頃から中国の書物がもたらされ、更に西暦702年遣唐使が再開し、以降多くの書物を持ち帰ったと言う事が記録にありますから、それらを参考にして、神武即位や在位年数や各種事象の年、没年干支を調整していると言われています。日本書紀に魏志倭人伝が反映している事は、神功皇后紀に明白です。したがって信憑性に多少の疑問を持ちながらも、没年干支は重要な情報と認め、以前よりかなりの専門家が研究され、各天皇の西暦年代を求めています。それでは記紀に対して、専門家はどのようなスタンスで臨んでおられるのでしょうか。多くの発表された文献から、基本的には次の事が言えると思います。
1 | 1260年前に設定した事からして、在位年数その他多くの矛盾はあるが
『記紀を単なる神話としてだけではなく、歴史的な記憶の反映とみるべきであろう』 |
2 | 神武天皇であるか否かは別として、九州地方から
『東征という一つの民族移動があり、優れた指導者によって大和朝廷が築かれた事は事実であろう』 |
3 | 年代記述はないが(没年干支以外)
『古事記の方が脚色が少なく、伝承として信頼できるのではないか』 |
4 | 東征した勢力が
『邪馬台国の後継者であるか否かは、別の議論』 |
以上のような考え方が、一般的と言えそうです。上記を前提としてそれではどのような議論が行われているのか、次回お話をします。