前回3回にわたって、長々と古事記をベースとした主な出来事を一覧にして掲載しました。『記紀』に関しては、以前からそれなりに『一つの物語』として繰返し何度か読み、専門家の研究・分析を楽しんでおります。しかしながら、記紀は奥が深く、その解釈方法も多岐に亙り、私のようなアマチュアには、『邪馬台国』と『記紀』を結びつけるような事柄は、ごく僅かしか見出す事が出来ません。
今回からはこの『記紀』から、邪馬台国発見の参考となる事柄に関して、専門家の研究内容をお話します。と申しましても、魏志倭人伝の研究の中から、時々記紀に飛んで、『記紀でこのように書かれているから』等の見解が多く、話が分散しているケースが大半です。邪馬台国論争とリンクしながら、全体的に整理した研究は比較的少ないように思えます。(私の読書量が少ないのかもしれませんが・・) 勿論、安本美典氏の力作『卑弥呼の謎(講談社)』のように、記紀を中心として、邪馬台国と卑弥呼を導き出している研究もあり、また記紀に関する詳細な研究・古代大和朝廷の成立等に関する書籍は溢れるほどあります。以下今まで同様入門者向けに、私流に整理して話を進めます。このテーマに関しては、記紀がベースになることは当然です。そして歴史的に見ても、記紀に疑問を持ち始めてから、魏志倭人伝の解読と並行して、邪馬台国論争が開始されたと言っても過言ではありません。
日本書紀は我が国で最初の邪馬台国畿内説と言われております。すなわち、既にあった国つ神の国々に対して、天つ神の天孫降臨によって九州の日向に国が出来て、神武の東征が行われ、畿内橿原に古代の大和朝廷らしきものが発生し、13代の天皇が統治した。その後14代仲哀天皇の后『神功皇后』が魏志倭人伝の卑弥呼であるとして、この時期を邪馬台国時代に想定しています。魏志倭人伝の台与(トヨ)の登場と多少矛盾がありますが、15代応神天皇以降を邪馬台国後の古代国家として印象付けています。すなわち、日本書紀30巻は、基本的には天皇紀から成り立っていますが、例外として巻8仲哀紀と巻10応神紀の間に巻9として『神功皇后紀』として独立して書かれています。ここで記述されている内容から、判断している訳ですが、神功皇后=卑弥呼と考える重要な点は、以下の事項と言われています。
@ 仲哀天皇紀は非常に簡単で、しかも短命である
13代成務天皇、14代仲哀天皇の記述は非常に少なく、神功皇后紀は両方を合わせたよりもはるかに膨大な記述量です。仲哀天皇紀に少し触れますと、31歳で立太子の儀式後、12年後の春43歳で天皇となります。そして仲哀9年春52歳で崩御、その在位年数は足掛け9年足らずです。この短さは異常です。孝昭(5代)から応神天皇(15代)迄の全ての天皇及び神功皇后はすべて100歳以上ですから、奇異に感じられます。(分注として熊襲の矢に当たり早世したという記述がありますが・・分注に関しては次回お話しますが加筆された文です) しかも、短い仲哀天皇紀の大半は、神功皇后と行動を伴にする熊襲征伐や皇后の神懸かりの話に終始しています。このような事は、神功皇后を最も重要な人物と捉え、次項でお話する内容と相俟って、卑弥呼であると解釈できます。(そのように作られています)
A 神功皇后紀は独立して存在する
古事記における神功皇后の活躍は、仲哀天皇紀に書かれていますが(中の巻で説明済)、日本書紀は、天皇ではなく、摂政としての神功皇后が一つの帝紀として存在しています。この事は、神功皇后が架空の人物ではなく、極めて重要な人物である証拠で、しかも神功皇后39年倭の女王が魏に使いした記述(詳細次項)がある。したがって卑弥呼そのものである、と解釈できます。すなわち、本紀は仲哀と共に筑紫に出向き、神懸かりとなって出た言葉に 仲哀天皇が疑問を抱き、結果として死亡。(ここまでは仲哀紀と重複)この時既に後の応神天皇を御腹に宿し、以降新羅征伐から大和への帰還。(前出古事記14代仲哀紀参照) この間の期間が約一年で、ここまでを摂政前期としています。
その後、群臣が彼女を皇太后とした年を摂政元年とし、3年に応神の立太子、13年応神と武内宿禰の敦賀行きと続きます。更に古事記には一切記述が無い朝鮮との外交記述が続き、69年に崩御、天皇位は69年間空位であったことになります。その間分注を含め以下の事柄が記述されています。
摂政39年(西暦換算239年) 倭の女王景初3年魏に使いする・・分注
40年(西暦換算240年) 正始元年の帯方郡使の来朝・・分注
43年(西暦換算243年) 倭女王の貢献・・分注
46年(西暦換算246年) 百済と初めての外交記事・・百済紀では西暦366年
更に 47年 49年 52年 55年 56年 62年 64年 65年 (西暦換算で247年〜265年)に亙って百済との外交記事があります。百済紀でのこれに対応した記述は、丁度120年後の時代の話となり(西暦367年〜385年)、摂政46年から突然120年の相違が発生しています。(ここに着目すれば神功皇后は仮に存在していたとしても、4世紀後半の人物であり、全てを認めると190年も生存した事になり、大いに議論あり・・後述) 尚、上記の西暦換算は魏志、百済紀から求めた年数で、これらは信憑性があるものとしています。
B 魏志倭人伝に類似した記述が多くある
神功皇后紀に書かれている内容は確かに魏志倭人伝とよく似た話があります。新羅征伐に関連して出てくる地名には、対馬、松浦、伊都、那、山門郡、宇美、等邪馬台国で重要な国々の地名が登場しています。又男王と思われる人物として『武内宿禰』が常に登場し、彼女および応神を補佐しています。
以上ベースとなる記紀の話をしてきました。確かに記紀は邪馬台国畿内説として書かれています。神武東征の後、神功皇后の時代が魏志倭人伝の言う邪馬台国時代である、と解釈できます。またそのように作られていると思われます。しかしながら百済との外交記事における120年のギャップや、各天皇の年代推測計算(詳細は次回以降)とのギャップ、その他九州から東征したことを思わせる複数の類似する話等、矛盾が多く、神功皇后紀を無理に挿入したとしか考えられない、として多くの方々が、記紀を素直に解釈した畿内説を否定しています。
そしてここから議論が始まります。因みに日本書紀の西暦換算(あまり信用されていませんが)では、仲哀天皇192年〜200年、神功皇后201年〜269年の在位となり、摂政元年は33代推古女帝9年から丁度400年前となります(岩波書店刊日本書紀補注より)。