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続『密謀』雑感 

 然らば何故『密謀』が書かれたのであろうか。このことに関してはファンの既に知るところではあるが、敢えて言及すれば以下の二つのエッセーから汲み取れる。

     米沢と私の歴史小説   (藤沢周平の世界  文春文庫) 93/10 

     前出の『密謀』を終えて (小説の周辺    文春文庫) 81/10

 上記のエッセーで、大大名120万石となった上杉家が、何故30万石に凋落してまでも戦わなかったのか、に大いなる疑問を持ちそれを解き明かしたかった、とある。ご自分と米沢と言う土地との関係を含め、自分なりに答えを出してみたい気持ちに駆られたのである。

 更に独断と偏見で言及すれば、藤沢は元来物事の本流に登場する人間よりも、傍流の人物を好む傾向にあるように思える。直江状で知られる直江兼続を歴史上の傍流と言うのは失礼かもしれないが、全国一般の人人の認知度は私にはその程度ではないかと思える。そのような意味合いにおいて、藤沢の対象範疇にあり「解き明かしたかった」のではあるまいか。

 小説『密謀』は「誤算がひとつあった。すでに書きつくされている当時の歴史的事柄についてはなるべく筆をはぶき、上杉という当時の一強国の動きに焦点をしぼるつもりでいたのだが、・・中略・・記述の重複を避けては上杉の動きも描き得なかった」と作者自身が言われている。上杉家の歴史上で極めて重要な『お館の乱』を割愛し、景勝が家督を継いだ時代から物語りが始まるのもその辺を意識したのであろう。しかし書き進めてゆくうちに歴史の本流をどうしても外せなかったようである。
したがって史実的記述がかなり書かれた作品である。「歳月」の章で十年の歴史を書き、特に「青龍・白虎」の章を中心に「家康の横車の巧みさと、諸大名の動き」が忠実に展開され、兼続登場の余地さえないほどである。

 しかし読者としてはそこに書かれている史実は、まさに必然があり、豊臣から徳川に変遷してゆく過程が、既存の諸作品に重複するものではなく、藤沢周平らしき観点で実に鮮明に掌握できる。むしろ本作品の最大の魅力の一つであると解釈している。ここはじっくりと時間をかけて読みたいものである。

それはともかく、本作品の最大の焦点は大きく二つ存在するように思っている。

   ◎ 題名となっている兼続と三成の密約説の存在

   ◎ 二度の好機があったのに何故戦わなかったのか

 密約説に関して著者は『周平独言』「鳥居元忠の奮戦」の冒頭で、「兼続と三成に密約があったかのようであるが確定した証拠はない」としている。その上で上杉の行動は、必ずしも三成と関連するものではない、と述べている。史実を慎重に扱う著者の考え方からすれば、『密謀』という題名は単純には解釈できない。すなわち「密約」は果たして存在したのであろうか、と言うことを解き明かそうとしている題名なのであろうと理解する。


 しからばその存在は・・・。兼続と三成が密約を交わすことが想定されるシーンは、以前から親交はあるものの「佐和山」の章、すなわち景勝が大阪屋敷を出て帰国の途につき、その途中佐和山に閑居している三成を訪ねる箇所である。

兼続は新しく作る城の規模を説明、内府がそれを咎めるであろうと石田は言う。
場合によっては一戦もやむを得ない。うまく行けばはさみ討つことが出来る、と兼続。
まさにその通りっと石田。しかし二人の思い・狙いは同じであろうか。

「貴公その用があって、この城に立ち寄ったな」兼続は黙って微笑した。石田も笑った。
二人はしばらくそうして顔を見合っていたが不意に四方にひびく声で哄笑した。
兼続が手を出すと、石田はその手をしっかりとにぎりながら、まだ笑いの残る声で言った。
「それをおれの口から言わせるとは油断のならぬ男だ。いや直江山城、もともと油断のならぬ人物ではある」


ここでは腹芸とも思える会話がされるが、最後は三成のみが一人饒舌で、兼続は沈黙をしている。ここをどう解釈すべきなのか。この文章を読む限り、藤沢は密約は存在しなかったと結論付けているようにも思える。よしんばあったとしても、それは三成の独善的な思いであり、兼続は密約という明確な感覚ではなかったと推理する。尤も後述する関ヶ原において、結果として西下しなかった兼続を、裏切り者扱いにしたくないと言う藤沢の想いがあったのかもしれないが・・・。以上のことから本作品の題名「密謀」を考えると、世に言われる『密謀は無かった』と言うタイトルの意味に解釈したい。(これは独断です)


 さて、上杉百二十万石の大大名が戦わずして、結果として何故三十万石に減石となってしまったか。藤沢はこの点に最大の興味を抱いたとエッセーで書いている。その答えはまさに象徴的な二つの事実を通して結論付けている。兼続の考え方や意見具申に対して相違のなかった景勝・兼続主従が、意見の相違をみせる二つの局面である。

 先ずは「革籠ヶ原」の章の終盤である。すなわち会津征伐から突如Uターンして、家康軍が西下した時の上杉軍の行動である。兼続は徳川軍の追撃を進言する。だが、景勝は首を振る「その必要はない!」と。「上杉は内府を討つために兵を挙げたわけではあるまい。彼攻め来るがゆえに、われもまた兵を構え、雌雄を決しようとした。武門の意地はつらぬいた。大阪に対する義もいささか立ったというものだ」「内府が江戸に退くというなら、われまた会津に帰るのみ。敵の弱みにつけこんで追撃をかけるのは上杉の作法ではない

ここで兼続は、景勝が「古い義」を言っていると解釈「上杉は天下の大勢に遅れる」「石田との約定がある」としながらも口を閉じたのである。著者は謙信以来の「」の精神が、南下をしなかった理由としたように思える。独断であるが、この時の景勝の判断は、後の結果を全く想定していなかったように思える。それに比べ兼続は上方の結果を予想していたやに思え、兼続の度量の深さが伺い知れるが、如何なものであろうか。


 二つ目の局面は「冬の雲」の章である。関ヶ原の結果をみた上で、最上攻めから会津に帰った兼続が景勝に進言する。「座して滅びを待つよりは出でて決戦を挑むにしかず」と。すなわち今こそ手薄な江戸を攻め、かの城を陥し決戦に持ち込みたい!と進言する。嵩にかかって「内府は必ず天下の大軍をひきいて来ますぞ。上杉の滅亡は火をみるよりもあきらかです」と。

 これに対して景勝は縷々天下の情勢を説明、「内府はいずれ大軍をひきいてくるであろう」が「待て、山城、天下の大勢は覆えせぬ」と、二つ目の意見の対立である。そして言う「わしのつらをみろ。これが天下人のつらか」更に「わしは武者よ」「天下のまつりごとは別格。わしは腹黒の政治好きではない。その器量もないが、土台、天下人などというものにさほど興味を持たぬ」と。その上で本多正信、榊原康政からの書状を手渡し「上杉の家名を残すのだ。武者は恥辱にまみれても・・今はその時ぞ」。ここは敢えて説明を要しないであろう。自らを天下人の器ではない!これが決定的な理由であろう。

厚顔の男のまわりに、ひとがむらがりあつまることの不思議さよ。義はついに不義に勝てぬか。無念ながらも冷静に和睦の成否をさぐる兼続である。最後の判断・・・どちらが正しかったのか、凡人の私には判らない。家名を残したい景勝の考えも理解できるが、兼続の無念さを思うと・・・。歴史には「たら、れば」は無いのであるが・・・。

 結果として言えることは、上杉家は存続、後に更に十五万石に減石され、苦難の藩運営が延々と続くのはご存知の通りである。この事実を善しとすべきか否か。「漆の実のみのる国」の執筆にまで及んだ著者藤沢の感慨はどのようなものであったのか。

2009年3月2日記   

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