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映画『山桜』への想い

 藤沢周平短編作品の秀作『山桜』の映画が完成したことが話題になっている。しかも原作に忠実で、見事な出来栄えとの事で評判も上々のようである。以前からこの作品の映像化はかなり難しいのではないかと思っていたし、まさか映画になるとは思ってもみなかった。門外漢の私などには、どのような脚本にしたら100分ほどの映画になるのか想像もつかない。

原作を読んだ方ならお判りのように、この作品は本当に短い作品である。400字詰め原稿用紙40に満たない僅か30分程度で読み終える作品である。基本的にはラブロマンスの範疇に入るのであろうが、『山桜』の咲く頃、主人公「野江」・「手塚弥一郎」の二人が会うシーンはたった一度であり、しかもそのシーンは想いを伝え合うような情景ではなく、簡単な初対面の挨拶程度の会話である。その上、「手塚」はその後作品の中では、彼が起こした事件が間接的に書かれるのみで直接的には全く登場しない。

小説全体としては、再婚したものの不遇の境遇にある「野江」が、「弥一郎」との僅かな会話をはげみとして、今の境遇が戻ることの出来ない自分の生きてゆく道だと納得し、頑張って行こうと決意をするが・・・。手塚が起こした事件を契機に離縁され(むしろ望んだ)、再度実家に戻り暗澹たる日日を過ごす。そして再び訪れた『山桜』の咲く季節に、世間のしきたりを越えた大胆な行動に出る「野江」。「野江」の微妙な心の変化と行動が、美しい情景描写と共に淡々と描かれる。

開花と同時に葉も芽吹くと言う『山桜』を巧みな題材として、藤沢文学の真髄である端正な文章が見事に咲かせた作品で、清清しい読後感が心地よく個人的には最も好きな作品の一つではあるが・・・これが映画になるとは。

たーさんの友人で、熱烈な藤沢周平ファンは語る、『野江の相手役の手塚弥一郎のセリフは高々8回しかないと』・・・以下に原作から引用させてもらう。お墓参りの帰り道、野江は山桜をみて一枝ほしくなったが、近づくと意外に高い位置にあって手がとどかない その時、

弥一郎・・「手折って進ぜよう」

弥一郎・・「このあたりで、よろしいか」

弥一郎・・「浦井の野江どのですな。いや、失礼。いまは磯村の家のひとであった」

野江・・・「・・・・」

弥一郎・・「多分お忘れであろうが、手塚でござる。手塚弥一郎」

弥一郎・・「思い出していただけたようですな」

野江・・・「あの節は・・・」「失礼申し上げました」

弥一郎・・「かような場所でお目にかかるとは思はなんだ。いや、相変わらずおうつくしい」

弥一郎・・「いまは、おしあわせでござろうな?」

野江・・・「はい」

弥一郎・・「さようか。案じておったが、それは重畳」

たったこれだけの会話である。以降二人は逢うことも無く、周りから縁を勧められるわけでもない。しかも弥一郎は犯罪人として裁断を待つ身の上となる。普通に平面的に読めばここから『恋』は生まれないであろう。しかしこの作品は王道を行く、人生を賭けた『恋物語』なのである。小説家藤沢周平の力量の凄さであろう。(小説の世界として)

公式HP情報によると、手塚弥一郎役を第一級の俳優『東山紀之さん』が演ずるという。たったこれだけのセリフしかない役を大スターが引き受けるとは・・・彼も作品に惚れたのであろう。今まで映画化された幾つかの作品では、他の藤沢作品からも題材を採り、寄せ鍋の如き作品も散見されたが、今回の作品は、原作者のお嬢さんの『遠藤展子』氏もまさに原作通りで納得をされているようである。(下記のアドレスは勝手にリンクしました。)

遠藤展子氏の感想

藤沢文学の、行間ににじむ深い味わいをどのように解釈して奥行きを持たせたか。原作では、さらりと書いているシーンがそれなりにあるので、幾つかの場面を想像することも出来るが、それは素人の浅知恵と言うものであろう。この作品の味わいが頂点に達する最終シーン、式台に上がろうとした「野江」の胸にこみ上げてくる悦びをどのように描くか、更に著者が言わんとしている『人生回り道もわるくはない』と言うテーマがどのように伝わるか・・・楽しみではある。2008年5月31日の公開が待たれる。

このHPにはいささか不似合いな文章ですが、敢えて期間限定で掲載をいたしました。宣伝のつもりは毛頭ありません。ご理解ください。(^_^;)  映画を観たらチョッとだけ感想を書くつもりです。

2008年4月28日記

先日映画を観ました。  映画『山桜を鑑賞して』

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