海坂藩作品と思って差し支えのない長編時代小説には『風の果て』『三屋清左衛門残日録』『蝉しぐれ』『秘太刀馬の骨』の4作品があるが、何時の時代であるかを明確にしていないように思える。他の海坂藩短編作品とあわせイメージ的には、文化・文政時代であろうと推測している。ところが『風の果て』には明確にするヒントが隠されている。
本作品はご存知の通り『週刊朝日』に連載された長編時代小説である。連載小説は完結してから掲載されるわけではないから、掲載が進むにつれて情景や背景表現に多少の変化が現われることがままある。『秘太刀馬の骨』も途中から五間川が登場し、完全な海坂作品に変化している(独断です)。この様なことはファンからの反応や、出版社の意向が多少左右するのかもしれない。
さて『風の果て』であるが、本作品の本筋は五人の友人が21〜22才頃「片貝道場」に通う場面から始まる。物語の前半は時代や年齢に関してそれほど詳細に書かれていない。宝永・宝暦の飢饉等が過去の話として挿入される程度である。よって、時代的には藤沢文学得意の「化政時代」であろう、年齢的にも「四年ほど経って」等の表現が多く、ここでは何となく三十半ば程度のことであろう、と漠然と読むことになる。
ところが、年齢に関して中盤の「町見家の章の第二節」、久しぶりに隼太と市之丞が会う場面で「おぬしより一つ下だ。三十六だ。」の会話が現われる。更に元号的話としては終盤「陰の図面の章の第二節」に突如、「寛政四年七月の最後の五の日」の文章が現われる。この二つの文章は、明確に年齢や元号を示している。この文章をキーワードとして、作品全体や一つひとつの挿話の、元号や彼等の年齢が明らかになると考え、下表のような推測をしてみた。(キーワードとなった箇所を下記の表で色塗りをした)
先ずは年齢である。代官になった翌年が36歳と判明、これを起点にして作品の冒頭までの年齢が逆算できる。36歳以降は作品の中にちりばめられている年数によって、各エピソードの年齢が算出出来る。年齢が判別できると、「寛政四年」:「39歳」を起点にして全ての元号・西暦を求めることが出来る。
何故この様に、二箇所だけ明確な表現をされたのかは解る筈もないし、本作品が途中から変化した云々に関しては、たーさんの独断です。唯一つ想像できる事として、庄内には天保堰という水路が天保8年(1837年)に完成した事実があるそうです。種種の事情をおもんばかって、40年程時をずらして年代を明確に(フィクションとして)したのかも知れません。
年号・年齢等は上村隼太(桑山又左衛門)を対象としています。結論から言えば、かなり難しくパズルを解くような作業でした。部分的に解釈の相違や誤りがあるかもしれません。m(__)m
年齢 | 元号 | 役職 | 章 名 | 判 断 の 参 考 に な る 主 た る 文 章・話 |
22 | 安永四年 1775年 |
部屋住み | 片貝道場・・四 | 秋の日が射る町並み、二十を過ぎたばかりの隼太。 宮坂の後家は一蔵より五つ上の二十七。 片貝道場の帰りに楢岡図書宅に寄り太蔵が原の話を聞く、一蔵は宮坂の後家に婿入りの縁組が八分どおり纏まっている。 |
23 | 安永五年 1776年 |
同上 | わかれ道・・一 | 寺田一蔵が婿入りした翌年の春。 鹿之助の誘いで寺田一蔵も含め「小菊」に、鹿之助家督を継ぐ。 |
23 | 同年 | 同上 | 太蔵が原・・五 | 同じ年。 太蔵が原で桑山孫助に遭遇、婿入りを決める。 |
26 | 安永八年 1779年 |
同上 土方作業 |
春の雪・・一 | 婿入りしてあらまし二年半。 一蔵が殺人を犯し出奔、市之丞が討手となり出発、太蔵が原の開墾作業に出る、その期間およそ五ヶ月。その後一蔵の死を知る。 |
26 | 同年 | 郷方回り | 暗闘・・・二 | 太蔵が原の開墾が失敗に終わった年の暮れ。 桑山孫助が隠居、隼太の家督相続願いの許可が出る、二年間みっちり仕事を叩き込まれる。 |
29 | 天明二年 1782年 |
郡奉行助役見習 | 暗闘・・・三 町見家・・一 |
三年経った四月、天明の凶作と言われた前年。 用人牧原喜左衛門の護衛役、市之丞の助けもあって役目を果たす。 |
30 | 天明三年 1783年 |
郡奉行助役 | 町見家・・一 | 天明二年から三年にまたがる冬。 早稲の作付けを意見具申、後にその功により代官となる。 代官になった歳は35歳(天明八年・・1788年)と推測。 |
36 | 寛政元年 1789年 |
代官 | 町見家・・二 | 代官になった翌年の梅雨時。 久しぶりに市之丞を訪ね、江戸の町見家が太蔵が原を調査する時の護衛を依頼する。宮坂の後家と暮らしていることに驚く。 「おぬしよりひとつ下だ。三十六だ。」で年齢が判明。 |
36 | 同年 | 郡奉行 助役 |
町見家・・七 | 「田口半平」と太蔵が原を調査したその年の秋。 百姓の強訴事件が発生、裁きにより隼太は郡奉行助役に降格。 |
37 | 寛政二年 1790年 |
郡奉行 | 政変・・・四 | 柳の新芽がほころぶ春、杉山忠兵衛37歳で筆頭家老。 夜間の登城に際しての護衛をし、新執政の人事で昇格。この年の夏、父孫助が死亡、以降桑山又左衛門を名のる。 |
39 | 寛政四年 1792年 |
郡奉行 | 陰の図面・・二 | 郡奉行になって三年目の夏。 元号が明確に書かれた城中会議終了後、初めて殿に太蔵が原開墾地の進捗状況を説明。開墾地を殿が直接視察。 |
40 | 寛政五年 1793年 |
郡代 | 陰の図面・・二 | その翌年。 殿の江戸参府の直前に郡代昇進の人事が発表され、家禄330石に加増。 |
43 | 寛政八年 1796年 |
中老 | 陰の図面・・二 | 家禄330石となった四年後。 郡代にすすんでから四年目。(異なる文章がある) さらに300石加増されて、中老に昇進、敷地1600坪の屋敷に移転。 執政入りはこの年と判断できる。 |
45 | 寛政十年 1798年 |
中老 | 陰の図面・・五 | その二年後又左衛門の予感どおり、佐治庸助は執政を去る。 執政は杉山派に独占されるが、又左衛門は距離をおく。 |
48 | 享和元年 1801年 |
家老 | 陰の図面・・五 | 佐治庸助が罷免されて三年経って家老多田が引退。 多田のあとに又左衛門が家老に昇格。 |
50 | 享和三年 1803年 |
家老 | 陰の図面・・六 | 家老になって二年後の春。 杉山派の強引な政策「新竿打ち直し」「再検地」を審議、反対する又左衛門。二人の確執は明らかとなり、その後も未納年貢米や借財整理で対立するするが、一応の平穏が続く。 |
53 | 文化三年 1806年 |
家老 | 陰の図面・・六 | 雪の日のその夕刻。(年は不明であるが大論争の前年と推測) 奉行所の者が前触れもなく羽太屋を急襲して帳面を調査。杉山派の指示であろうと又左衛門は思う。それに対し、又左衛門は杉山忠兵衛の筆頭家老就任時の裏工作、鉛銀の無断使用などを調べ上げる。 |
54 | 文化四年 1807年 |
筆頭家老 | 陰の図面・・七 | 藩主の出席を仰ぎ、年を越えた今年の三月。 太蔵が原の開墾に関する、杉山・桑山の大論争事件、鉛銀の無断使用で杉山忠兵衛失脚、桑山又左衛門は遂に執政の中心筆頭家老に。 |
54 | 文化四年 1807年 |
筆頭家老 | 天空の声・・一 | 執政入りして足かけ11年、家老になって六年の歳月が過ぎた。 果し状を受け取ってから五日目、筆頭家老の身分でありながら、市之丞の果し状に応じ、果し合いの場所へ。果し状を受け取ってからの四日間は、作品の冒頭から全体に亘って書かれ、本章で合流する。果し状を受け取ったのはその年の初冬。(町見家の章の冒頭、木々の枝葉ほとんど裸・・・) |
余談
当初、「二十歳を過ぎたばかりの隼太」の文章から、21歳を想定したが、代官になった翌年36歳と明示されている文章から逆算すると、どうしても一年のズレが消えず22歳と判断した。一蔵は22歳と明確であり、婿入りの話が秋なので一蔵はその年に婿入りと判断した。(翌年婿入りであれば、隼太は21歳から登場である。)
中老になった年齢・年号は多少の戸惑いがあった。『陰の図面・・二』で郡代に昇格し、330石の加増を受け陰口がささやかれた文章の後、「しかし、それから四年後に、又左衛門がさらに三百石の加増を・・」とあるので、四年後と思われた。しかし文章を少し進めると、「郡代にすすんで四年目の、秋のその日も」とあり、「貴公は、本日から中老に任ぜられる」となっているので矛盾があるが、その後に「四十三歳の又左衛門の身体は、熱湯をかぶったように熱くなっていた。」とあるため、後者の文章で判断した。(2007/11追記)
文化三年と思われる「杉山派による羽太屋の調査」「又左衛門の鉛銀などの調査」のくだりは元号がはっきりしない。突如「雪の日のその夕刻」とあるだけである。一見すると享和三年の「新竿打ち直し」論争・対立のすぐ後のように錯覚する。ここは少し読みにくい。しかし、次に出てくる最後の論争の場面が、「藩主の出席を仰ぎ、年を越えた今年の三月」とあるので、鉛銀大論争の前年(文化三年)と判断した。(筆頭家老になる前年)
筆頭家老になった年齢は明記されていないが、五十四歳と判断した。又左衛門が執政入りした年齢は43歳である。「執政入りして足かけ11年、家老になって六年の歳月が過ぎた」の文章から判断をした。年齢はこの時代『数え年年齢』であろうと思っている。多分杉山忠兵衛が失脚した文化四年三月の直後であろう。(足掛け11年とあるから、場合によっては五十三歳の可能性もあるが、この場合は以降の年齢は一歳少ない)。
本作品は、足掛け33年に亘る話で、筆頭家老としての五日間と、過去の三十年余りが交互に錯綜しながら進む複雑な構成である。しかも連載小説でありながら年代的に矛盾が全く無い、当然といえば当然であるが、しかし驚くべき作品である。想像するに、当初から作品全体の年表等を準備していたのであろう。藤沢周平の精緻さが充分に窺える傑作である。(大作家の作品でも矛盾のあるケースがたまには存在する)
参照する章名は代表的な箇所であり、他の章も関連する場合がある。尚、元号と西暦の関係は「吉川弘文館」の「標準日本史年表」のルールに従った。
続があります。「風の果ての五日間」
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