本題名の作品は
@ 1963年(昭和38年)讀売新聞に投稿選外佳作となった作品(本名で) A 1966年(昭和41年)第29回オール讀物新人賞で第3次予選迄通過した作品 B 1976年(昭和51年)週刊小説に(3月19日号〜)『橋ものがたり』の中の作品
の3作品があります。
@、Aの2作品は書籍になっていないので無視すべきかも知れません。しかし3つの作品の存在について、以前から気になっていたので、友人の協力を得て調べてみました。
讀売新聞投稿佳作入選作品
1963年(昭和38年)1月27日付け夕刊に『第57回讀売短編小説賞』の入選作が発表されています。(コピーしました)入選作は原元氏で作品名は『義叔父』、全文が掲載されています。同時に審査委員・吉田健一氏の選評が掲載されています。少し長文ですが以下に掲載します。
「今回の応募作品にはいいものが多かったように思う。原元氏の『義叔父』、横山利夫(弘前市)の『金魚』、
小菅留治氏(東京)の『赤い夕日』 、奈利田謙氏(東京)の『再会』、豊岡道元氏(豊中市)の『短い情事』のうち、どれに決めるか迷った後、最初にあげた原氏の作品を選ぶことにした。『義叔父』が文体、あるいは構想の点で他の四編よりも特に優れているというのではない。文体が整っていて、そのことでもわかるように、一編の作品が過不足なくそこにあるという点では、横山氏の『金魚』を取るべきかも知れない。しかし『義叔父』の、姪に対する愛情に溺れている老農夫の像には、他の作品には見られない真実がある。小説家の喜びというのは、こういう人物を再現することにあるのではないだろうか。これはほとんど野放図な再現である。次席に横山氏の作品を選ぶとしたい」
残念ながら入選は果せませんでしたが、初めて小菅留治氏の作品が専門家の目に留まった記念すべき作品
でうれしい限りです。余談ですが本賞は、1958年〜1966年(毎月1回新聞に入選作を発表)で終わっています。
更に本作品に関して別の情報があります。山形女子短大教授・松坂俊夫著・1984年・福武書店刊の
『東北の作家たち』 によると、藤沢文学の開花の節で「 讀売新聞の短編小説公募に応じた『赤い夕日』が佳作に入選、最初に世に出た作品で現代小説だったということです
」。『・・・だったということです』という記述が、いささか気になるところですが、しかし現代小説の可能性が高いと言わざるを得ません。
オール讀物新人賞第3次予選通過作品
1966年第29回新人賞応募の本作品に関する情報は、残念ながら情報を見つけることができませんでした。唯、出版関係に詳しい友人によれば、一般的に『○○賞』などへの応募作品は別の媒体に二度と応募できない、いわゆる『二重応募は禁じ手』のルールがあるとのこと。したがって、讀売新聞応募とオール讀物応募の作品は、独立した別物と考えるのが順当なところと思われます。(後に題名が誤りで『赤い月』と判明・・・更に続くで後述)
週刊小説『橋ものがたり』中に掲載された作品
本作品はその全貌が明白であり、その内容が前2作品と何らかの関係があるか否かに関心あります。作家は習作中の作品を○○賞受賞後、加筆リライトして発表することがある、と一般論としてよく聞きます。この場合は『二重応募は禁じ手』のルールには一切ふれることはなく、正当化されているとのことです。まず讀売新聞投稿作品との関係をみますと、全くないように思えます。
その根拠として、現代小説の可能性が大きいこと以外に、作品の大きさ(文字数)に大きな相違があると推測できます。前述の讀売新聞夕刊に第59回作品募集の要項が掲載されその中に『四百字詰め20枚』とあり、一方週刊小説の作品は優に50枚を超える作品で、明らかに異なる作品と判断してよさそうです。次に、オール讀物応募作品との関連ですが、本作品の内容が全く不明であり、リライトも考えられなくはないですが(氏を冒涜するつもりは全くありません)、10年という時間的経過(1966年、1976年)を考えると別物と考えたほうがよいと判断しました。
結果的に『赤い夕日』という題名の作品は3作品存在した、という結論に達しました。疑問として残るのは、氏はどうしてこの題名に拘りをもたれていたのか、私の中では不可思議です。