今回は中の巻の整理をします。
神武東征 | ・神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)は兄の
五瀬命と高千穂宮で相談。 ・天下を安らかに治める為には、『ここは西によりすぎている、もっと東に行くべき』と結論。 ・日向を出発、筑紫に向う。(降り立った所が筑紫の日向の高千穂なので、同じ筑紫でも異なるのか?) ・その行程は次の通り。 日向→豊国の宇沙(宇佐?)→筑紫の岡田宮(福岡県?)1年滞在 →阿岐国の多祁理宮(たぎりのみや)(広島県安芸?)7年滞在 →吉備の高島宮(岡山県?)8年滞在→船で瀬戸内海を行く →速吸門(はやすいのと)→波速(なみはや)→白肩津(しろかたのつ) ・ここで戦いがあり、兄の五瀬命が重傷を負う。そこで彼曰く神の子が太陽に向って戦うのはよくない、遠回りして太陽を背にして戦うべき、そこで南に方向転換 。 →血沼海(ちぬのうみ)(大阪湾?)→紀伊国男之水門(おのみなと)(紀ノ川河口?) ・ここで兄の五瀬命は落命・・御陵は亀山に作った。 →熊野村(新宮市?)→宇陀(吉野?)→忍坂(桜井?)→畝傍の橿原の宮で即位 ・これが初代天皇神武天皇。 ・この間、天つ神軍に対して国つ神の軍が沢山挑戦するが、尽くやぶる逸話が多くある。 ・ピンチの時、天照大神と高木神が太刀をくれる話、高木神が八咫烏を遣わす話、兄弟の土豪や土着民土雲の抵抗とこれを平定する話、多くの国つ神の武将が家来になる話等の逸話がある。 ・日本書紀には金色に輝く鵄(トビ)の話がある。(戦時中の金鵄勲章のもとになった話) |
神武天皇 (1代) |
・神武天皇は、皇后にふさわしい人として伊須気余理比売(イスケヨリヒメ)と結婚。
・3人の子供を産む。日子八井命(ヒコヤイノミコト)、神八井耳命(カムヤイミミノミコト)、神沼河耳命(カムヌナカワミミノミコト)である。 日本書紀ではこの記述に引続いて、神武を『ハツクニシラススメラミコト』と曰くとしている。 ・これとは別に、日向において『アヒラヒメ』との間に、タギシミミノミコト、キスミミミノミコトの二人の子供が有った。 ・神武天皇の死、137歳(紀では127歳)。御陵は畝傍山の北カシホ(橿原市畝傍町?)に有ると言う。 |
綵靖天皇 (2代) |
・神武の死後、タギシミミノミコト(日向時代の子)は父の皇后であった伊須気余理比売を、強引に妻とする。
・さらに天皇になろうとして三兄弟の殺害を計画。 ・伊須気余理比売は悩んだ末、歌で三兄弟に連絡する。 ・兄が勇気が無く、結果として三番目の神沼河耳命(カムヌナカワミミノミコト)がタギシミミノミコトを殺害。 ・この結果、兄達は神沼河耳命が天皇にふさわしいとして彼が天皇になる。 ・この天皇が第二代の綵靖(スイゼイ)天皇である。 |
安寧から 開化天皇 |
・以下、安寧(アンネイ3代)、懿徳(イトク4代)、孝昭(コウショウ5代)、孝安(コウアン6代)、孝霊(コウレイ7代)、孝元(コウゲン8代)、開化(カイカ9代)と続く。特に説話記述なし。
・記述内容は、宮名、皇后、子供、崩御年齢程度であり、懿徳(4代)、孝安(6代)、孝霊(7代)、開化(9代)以外は長男が継承とある、左記の天皇は次男又は三男。 ・孝霊(7代)天皇が、オホヤマトクニアレヒメとの間に、倭迹迹日百襲姫(ヤマトトモモソヒメ)を生んだとある。 ・開化(9代)天皇、5人の子供の記述以外に、4男ヒコイマスノミコの子孫を累々と記述その中に、息長帯比売命(オキナガタラシヒメ)(後の神宮皇后)を生んだとある。(日本書紀には無し) |
崇神天皇 (10代) |
・開化天皇の子、御真木入日子印恵命(ミマキイリヒコイニエノミコト)。 ・疫病が流行、この時、三輪山の大物主大神(オオモノヌシノオオカミ)が夢に登場。 ・オオタタネコの出現と、神の子である訳のエピソード。 ・三輪山に大神(おおみわ)神社を作る。(国つ神呪を鎮める為祭ったと思える) ・また天上神、地上神の区別を明確にした。 ・遠方へ将軍を遣わし、国を平定、いわゆる四道将軍の派遣を行う。タケハコヤスノミコトの反乱の説話。(ここに二度目の東征の如き話が出る) ・その範囲は東の方十二道といい、北陸、東海、相模、武蔵、会津から陸奥迄と広い。 ・168歳で崩御、この天皇も『ハツクニシラススメラミコト』と言う。 |
垂仁天皇 (11代) |
・崇神天皇の子、伊久米伊理毘古伊佐知命(イクメイリビコイサチノミコト)。 ・石上神社に刀千本を納めた。子供は16人、この中に後に倭建命の后となるフタヂノイリヒメの記述がある。 ・皇后の兄、サホビコノミコの反乱事件。(皇后は天皇と兄との板ばさみの中で出産と死) ・生まれた長男は言葉を話さない説話で、再度国つ神の怨念の登場、国つ神を敬い、出雲大社の建立。 ・初めて橘の木を見つけてくる逸話。(飛鳥橘寺と関係ありか?) |
景行天皇 (12代) |
・垂仁天皇の子、大帯日子淤斯呂和気命(オオタラシヒコオシロワケ)。 ・記録に残る子供21人、その他合わせて80人があった。 ・太子と呼ばれる子は以下の3人。 若帯日子命(後の成務天皇) 倭建命(ヤマトタケルノミコト)・・日本武尊 五百木入日子命(イオキノイリヒコ) ・景行天皇記は倭建命の話に終始する。気性が荒々しい話、西国征伐の話(変装して行き、熊襲建を討つ)、出雲建の殺害、等。 ・更に東国十二国の征伐。伊勢、相模、走水、四日市、そして鈴鹿での死の物語。4つの歌。 (ここに三度目の東征の如き話) ・古事記における倭建命は、天皇に疎まれている感じである。 (日本書紀では自分から希望している) ・倭建命の子供の記述有り。後の仲哀天皇(14代)を生む。 |
成務天皇 (13代) |
・景行天皇の子、若帯日子命(ワカタラシヒコノミコト)。 ・子供は1人、建内宿禰(タケノウチノスクネ)を大臣に登用。 ・国の境界、国造を制定。 |
仲哀天皇 (14代) |
・景行天皇の孫、倭建命の子、帯中津日子(タラシナカツヒコノミコト)。 ・大中津比売命との間に、カゴサカノミコ、オシクマノミコの二人を生む。 ・神功皇后との間に、ホムヤワケノミコト、品陀和気命(ホムダワケノミコト)(後の応神天皇)を生む。 ・神功皇后の神懸かりの話。(西方に国在り、この国は胎内の子が治めるべし、これは天照大神の言葉である、等の話)。 ・新羅に遠征、筑紫で御産。大和へ帰還の途中、腹違いの皇子との戦い。(東征と似ている?) ・建内宿禰は皇太子と共に、近江、若狭、敦賀を転々、その後大和に帰還。 ・神功皇后は100歳で死亡、天皇は52歳で崩御。 |
応神天皇 (15代) |
・仲哀天皇と神功皇后の間に生まれた品陀和気命(ホムダワケノミコト)。 ・この天皇は男11人、女15人を生んだが、重要な人物は以下の3人。 大山守命(オオヤマモリノミコト) 大雀命(オオサザキノミコト) 宇遅能和紀郎子(ウジノワキノイラツコ) ・天皇は、それぞれの役割を指示。 大山守命は山海の政、大雀命は国の政、宇遅能和紀郎子は皇位を担当しろ。 ・この天皇は、山部、海部等の制度の制定、朝鮮半島からの人材の登用、論語の導入等を行う。 天皇の死後、大山守命が皇位を欲しくなり反乱(又も国が乱れる)。 大雀命と宇遅能和紀郎子は協力して、これを征伐。皇位を譲り合うが、宇遅能和紀郎子の早世により大雀命が皇位に着く。後の仁徳天皇。 |
ところで卑弥呼の候補者の一人である『 倭迹迹日百襲姫(ヤマトトモモソヒメ)』に関してですが、出生の記述は記紀共に在りますが、彼女の登場シーンは日本書紀にのみ存在します。以下に簡単に説明します。
崇神天皇(10代)の時、三輪山の大物主大神(オオモノヌシノオオカミ)が夢に登場し、大神神社を祭る話が有りますが、(前述の崇神天皇記)まずここに登場します。
すなわち、崇神7年2月天皇が災害の多い事を嘆くと、彼女が神懸かりして、大物主神の言葉として『心配無用、私を祭りなさい』と話をする。(国つ神の御告げを言う)
次に10年9月、タケハコヤスノミコトの反乱に関して、乙女の詠んだ歌に対して、聡明な判断で、反乱のある事を未然に予知、天皇に伝える。
そしてこの後、彼女は大物主神の妻となる。しかし神は夜にしか現れず、その実態は蛇(おろち)であり、御諸山に帰って行く。これを悔いて箸で陰を撞いて死亡する。
そこで大市(奈良県桜井市の北部)に葬る。この墓を『
箸墓』と言う。以上が簡単なダイジェストです。詳細は後述しますが、彼女と崇神天皇の関係を、卑弥呼とそれに仕える男子に例える専門家もおられます。