藤沢周平作品のエッセー『周平独言』で、「書斎のことなど」は好きな作品の一つである。その中で、「小説を書き出す動機というものは、たとえば小説が好きだからとか、上役とか時間とかに縛られない自由な仕事だからとか、もとでいらずに金が入る職業だからとか、いろいろあるだろう。実際には締切りという、じつにきびしい時間の制約があるし、また高い本を買ったり旅行をしたりという、もとでがかかる。もとでのかからない小説は、さほどよくないのである」と言うくだりがある。
もとでをかけているということは、平たく言えば「如何に多くの引出を持っているか」と言うことなのだろう。歴史小説や伝記作品は、当然のことながらもとでが掛かる。これは誰が考えても納得するであろう。元号や人名そして年齢等、何一つとして想像では書くことが出来ない。逆に言えば調査・確認し、全て自分のものとして理解している必要がある。藤沢周平もまた、エッセー『周平独言』の「時代のぬくもり」や『小説の周辺』「V」で多くの史実にふれ、その豊富な知識に驚くと共に、もとでを掛けている作家であることを今更ながら改めて認識をする。
更に上記の諸エッセー作品の視点ではなく、もとでを掛けている一例を如実に物語るエッセーがある。ご存知の方も多いかもしれないが、歴史随想エッセー『鶴ヶ岡城−戦国と戊辰の戦火』という作品である。本作品は単行本はおろか、全集にも編纂されていない作品で、2005年9月発行された「文春ムック」『蝉しぐれと藤沢周平の世界』(株 文藝春秋)に再掲された作品である。上記ムック本によって私は初めてその存在を知った。本書によれば、エッセーの初出は1977年『探訪日本の城−奥羽道』(小学館)で、更に1989年『日本名城紀行−東北・北関東』(小学館)として収録されているそうである。
本作品は、中世から幕末に至るまでの庄内藩の変遷を、史実に基づいて記述したもとでのかかったエッセーである。中世(平安)から鎌倉・南北朝・室町・応仁の乱・下克上の時代を経て、安土桃山から江戸初期・幕末迄の庄内地方でいかなる人物たちが覇を競い、興亡が繰り返されたかを、実に克明に精査し分かりやすく記述している。それぞれの時代の覇者がどのように生まれ滅びて行ったかの詳細は書くことは出来ないが、まさにもとでの掛かっているエッセー作品である。
本作品の発表は1977年とある。77年といえば藤沢周平作品オンパレードとも言える超多忙な時期である。よって本書に書かれている膨大な知識は、既にそれ以前に精査し身に付いていたものではないかと推測する。35歳前後に書かれた幻の短編の中の『残照十五里ヶ原』『忍者失格』も、既に本エッセーの持つ詳細な情報が反映されている。引き出しの中に入れたその時期が、山形師範時代か、闘病中の頃か、はたまた業界記者時代かは定かではないが・・・。
結果として藤沢周平は作家になる以前に、既にかなりの元手をかけた勉強をしていた事が想像できるのである。次々に発表された秀作・佳作もこの様な知識、バックグラウンドを持っていたからこそであり、ストーリーテラーとしての天賦の才能もさることながら、そもそももとでが掛かっているのである。勿論、著者が『インタビュー なぜ時代小説を書くのか』(藤沢周平の全て・・文藝春秋)で言われているように『ただ一撃』や『おふく』のように「すーっと」書けた作品もあるが・・・・。そういう意味合いからも、前述のエッセーは是非藤沢本として刊行を望みたい。
(「帰省」2008/7/30発行 兜カ藝春秋に編纂された・・・2008/8追記)
短編の名手といわれる藤沢周平にも歴史・伝記作品はそれなりに存在する。長編作品として『雲奔る』『義民が駆ける』『一茶』『回天の門』『密謀』『白き瓶』『市塵』『漆の実のみのる国』 等等である。
これらの作品はいわゆるもとでの掛かった作品群ではあるがしかし、折角歴史的史実に多くの引き出し持っているにもかかわらず、他の有名歴史作家に比して、その引き出しを活用した作品は何故か少ないと感ずるのである。その理由は、歴史上の有名人物よりも脇役や名も無き人人を多く題材にしている等、色々言われている『藤沢周平作品の特徴』の通りであろうが、何となく腑に落ちないし、もったいないような気がしている。作家としては創作期間が比較的短かった藤沢周平・・・多くの短編作品を発表する過程を考えると、時間的余裕も無かったのであろうが、豊富な歴史上の知識をもう少し活用してほしかったという思いがあり、残念さと疑問を持ち続けていた。
しかし、そのような観点から、改めて短編作品を眺めてみると、もとでを掛けている片鱗を窺い知ることの出来る作品が結構存在することに改めて気が付く。以下はそのように思われる主な作品である。(独断と偏見です)
作 品 名 | 文 庫 名 | 作 品 名 | 文 庫 名 |
十四人目の男 | 冤罪 | 逆軍の旗 | 逆軍の旗 |
証拠人 | 冤罪 | 幻にあらず | 逆軍の旗 |
孫十の逆襲 | 夜の橋 | 死闘 | 決闘の辻 |
一夢の敗北 | 夜の橋 | 夜明けの月影 | 決闘の辻 |
遠方より来る | 竹光始末 | 師弟剣 | 決闘の辻 |
竹光始末 | 竹光始末 | 振子の城 | 藤沢周平全集6 |
長門守の陰謀 | 長門守の陰謀 |
『逆軍の旗』『決闘の辻』に編纂されている作品群は中篇歴史作品の範疇であろうが、上記諸作品を再読すると一味違った短編として、もとでが掛かっていることを充分に楽しむことが出来、愚問であったことに思い当たるのである。
蛇足ながら更に言えば「浮世絵」「赤穂義士」「俳句」「短歌」等に関しても、驚くほどの引き出しを持っていることは、ファンの承知しているところであるが、これらに関しては小説とエッセーで十分に堪能できる。
2008年3月記 2008年4月一部修正
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