幻の短編集の公開、単行本(未刊行短編集)の発行によって、藤沢周平作品の全貌が揃った。素人にはいささかおこがましいことであるが、初期作品を含め藤沢文学の全貌を俯瞰することによって、『海坂藩作品=庄内がモデル』の図式は正しいのか、その経緯を考えてみた。
先ず幻の短編集であるが、1962年から足かけ3年に亘って14作品が執筆されている。このあたりにおける藤沢の当時の心理を探ってみる。(後に「浮世絵師」1作品が発見されて15作品)
藤沢周平は当初から3つのジャンルに分野を別け作品を創作しようとしていたと思える。すなわち「武家物」「市井物」「歴史物」である。幻の短編集にはこれら分野の作品が巧みに散りばめられている。当然ではあるが『海坂藩=庄内』という飛躍した結論を見出すことは無理である。海坂藩という言葉すら存在していないからである。
したがって15作品の中では、海坂藩作品の原型となる可能性がある「武家物・歴史物」に注目する。先ず「武家物」は、公儀隠密『如月伊十郎』を主人公にした『暗闘風の陣』『如月伊十郎』2作品と、同じく公儀隠密『狭直四郎』を主人公にした『無用の隠密』の3作品。武家物としては全て公儀隠密が絡んでいる。一方「歴史物」では『残照十五里ヶ原』と『上意打』の2作品。武家物と歴史物の中間を行く作品として『忍者失格』の1作品がある。原型の可能性のある作品は合わせて6作品である。これら作品のうち大半を占める5作品が『庄内を舞台』としているものである。他方で市井物として庄内を舞台にした作品には『木地師宗吉』『ひでこ節』の2作品があり、全体として実に7作品(半数)が庄内を舞台とした作品であることが特徴的である。
この7作品を検討してみると、『上意打』『無用の隠密』の2作品は注目に値する。海坂藩作品の特徴である「二派対立の構図」の原型となっていると想像できるからである。更に作品数から考えて、藤沢が創作に求めた舞台・モチーフの中で『庄内は重要な要素』であると思っていたことは確かであろう。このことは藤沢自身が、好む好まざるは別にして、庄内に関する知識・見識が自分の中で抜きん出て豊富であると認識していたことの現われであると推測する。幻の短編集を俯瞰した範囲では以上の2点を記憶しておく。
あらためて居住いを正し、本格的な作家を目指し執筆活動を再開。『赤い夕日』(本作品は幻の短編集と期間的には重複)『北斎戯曲』『蒿里曲』『赤い月』と作品を発表、遂に『溟い海』がオール讀物新人賞を受賞、引き続いて『囮』『賽子無宿』『帰郷』『黒い縄』の諸作品を発表する。しかしこれらの作品は、一部内容が不明確な作品もあるが、いずれもいわゆる市井物であり、武家物とは程遠く、ましてや海坂藩作品と無縁である。
次に発表された作品が、直木賞受賞作品『暗殺の年輪』である。本作品は藤沢の初の本格的武家物時代小説と言ってもいいであろう。暗殺の年輪には前作に比して以下のような特徴がある。
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海坂藩と言う藩名が初めて登場する
A
二派に分かれた藩の執政が存在する
B
主人公は公儀隠密ではなく下級武士である
藤沢周平が武家物時代小説の主人公を公儀隠密から、後の作品の中心となる下級武士に変更していることが窺える。しかしながら、作品の文体から本作品が庄内を舞台とした作品とは断言できない。
五間川が北から南に流れていることを判断材料にすれば、どちらかと言えば太平洋側を想像してもおかしくない。藩の地形は東斜面から西に広がる広大な台地であり、この様な地形は日本のいたるところに存在する。広大な台地という表現から判断すると、それは庄内とは言いがたいように思える。庄内は台地ではなく、近くに海を持つ完全な平野である。更に言えば本作品の海坂藩の城は、五層の天守閣を持つとあるが、鶴ヶ岡城は平城である。地形等全体の文体から勝手な推測をすれば、例えば会津の若松城(鶴が城)を中心とした会津藩を想像することも出来るし、いずれの地域でも結びつけることが可能である。
一方二派に分かれた執政に関しては、幻の短編『上意打』をヒントにしていると思われる。『上意打』は終盤において「長門、高力両派の深刻な対立」を危惧するシーンが現われる。そういう意味において、藤沢作品の重要な要素となる藩の分裂・お家騒動は庄内藩を舞台にした『上意打』にその原型があるように考えられる。しかし、本作品『暗殺の年輪』で、海坂藩=庄内と決定するのは早計であろう。海坂藩と言う名前は、ファンならば既に承知しているように、闘病時期から温めてきた大切な名前である。その大切な藩名を遂に使う時が到来したと判断をしたことは間違いあるまい。しかし使ってはみたものの、この時点において海坂藩は、未だ漠然とした地域であったのでは・・と想像する。
藤沢周平にとって当時の故郷庄内は、郷愁と決別という他人にはわからない複雑な想いの土地である。時代小説の舞台として展開するには、心の整理をするため、もう少し時間が必要であったのではないか。
暗殺の年輪の発表後、藤沢は武家物として『ただ一撃』『又蔵の火』を発表。この2作品は庄内の地名がそのまま登場する作品であり、武家物においては次第に庄内地方に傾注してゆく様子が窺える。そして遂に、二派対立の構図を持つ『相模守は無害』において海坂藩=庄内とみて違和感のない作品を発表する。主人公が未だ公儀隠密であるが、江戸と海坂藩が登場する本作品は、何となく藤沢周平自身の当時の心境が反映されているように思えるが・・・。その後単行本『逆軍の旗』に収められた諸作品や、多くの市井物作品を発表。同時に短編作品として『紅の記憶』『潮田伝五郎置文』『密夫の顔』『一顆の瓜』『桃の木の下で』『嚏(くしゃみ)』など74〜75年には海坂藩、又は海坂藩を彷彿させる多くの武家物時代小説を発表する。これらを発表する過程で、茫洋としていた海坂藩の風景・季節感・食べ物、そして藩の石高や地形・道場・寺院の位置などを、霧が晴れてゆくように次第に調えて行く。
その上で76年、歴史小説の『長門守の陰謀』を発表する。藤沢周平は本作品によって、間接的に海坂藩=庄内を示唆したのではないか。現存するであろう庄内地方の子孫の方方に対する配慮その他から、海坂藩作品の中で、直接的に海坂藩=庄内とすることを避け、歴史小説で示唆するというところが藤沢周平らしい細やかな配慮であろうと推測する。石高も半減させ、時代も明確にせず、海坂藩作品では永遠に地域を特定しない。そのような意味合いにおいて、『長門守の陰謀』は海坂藩作品にとって重要な意味を持つ作品であろう。
以上のような観点に立って整理してみると、幻の短編から『上意打』『無用の隠密』の2作品が、岩肌から滲み出でる雫となり、『暗殺の年輪』『ただ一撃』『又蔵の火』を経て『相模守は無害』が源流となり、『長門守の陰謀』によって「海坂=庄内」を暗黙のうちに示唆し、『隠し剣シリーズ』で大河となって、遂に『蝉しぐれ』によって大海原へと注ぐのである。大海原は万葉の海坂に通じているのかもしれない。
自己満足ではあるが、以上によって『海坂藩=庄内藩』がモデルであることに、些かの抵抗も無く納得できた。