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小説 長塚 節 白き瓶(7) (6)に戻る

 (6)に引き続いて。歌人の死2.

番号 メ   モ
歌人の死 八・九 大正3年8月16日、いよいよ青島への旅が始まる。しかし節を待っていたのは台風と結核病者に対する冷たい待遇であった。結核病者長塚節に対する旅館側の屈辱的な対応が累々と書かれる。風雨と微熱、高熱の中で彷徨する節であった。青島への転地療養は失敗に終わる。8月30日宮崎に戻った節は日向灘一帯の旅を続ける。じっとしているのが身体に一番良いという観念が無かったのである。しかし再び台風の遭遇。心のどこかで破滅的なものが揺れ動いた日南の放浪が終わる。
    藤沢周平が本作品を執筆するに際して、節の青島行きに大いなる疑義を持っていたこと、そして藤沢自身が日向に旅をされている事は多くの方が承知していることである。その結果が本節の文章となったのであろう。ここは読んでいて切ない思いになる。しかし、絶不調の身体を押してここ迄やる必要が何故あったのか、何度読んでも凡人には理解できない。
  9月22日福岡の平野旅館に戻った節。38度ぐらいの熱の中、濫作の反省や「アララギ」との乖離に多少不機嫌になるが、佳作が出来る。「鍼の如く」の批評に気持ちが弾むこともあったが、病状はすこしづづ悪化してゆく。10月23日喉頭の手術、年内の帰郷を諦めないが病状の実態は更に悪化していた。
  十一 「いつ、帰れるのだろうか」という不安の中、高熱と不眠に悩む節。話は少し遡り、斉藤茂吉の傑作「赤光」の批評に関する節の苦悩が描かれる。左千夫亡き後、重味のました節に対して批評がほしいとしつこく粘る茂吉、それに答えるべく834首もの歌の解釈に努力する節、しかし未完のまま一歩も進まなかった。
    平野旅館における風の吹いた夜の描写は実感がこもっていて、場所は異なるが経験をした人間にしか書けないような気がする。自分の置かれた子規派の重鎮としての立場、責任感に苦悩する節の心情が、そして茂吉の性格が見事に描かれる。
  十二 ここでは節が茂吉の歌に注目をした経緯が語られる。「石」「田螺の歌」を通して茂吉のスケールの大きい想像力に注目、左千夫との解釈の相違などを書きながら、大きな成果となった「赤光」も玉石混淆の感じはあるものの異様なまでの光芒を放つ作品があった、と語る。その上で茂吉を模倣する作家の存在は、茂吉は天才的な歌人なのではないか、茂吉の作品を論ずることは命取りになるであろうと思う。
  十三 大正3年11月23日観世音寺を訪ねる、しかし予想以上の疲れに襲われる。29日歌の題材を求めて松崎に旅するが、この日はこの冬一番という寒い日で高熱を出す。そのような状況の中で「鍼の如く」其の五70首の推敲と整理を行う。しかし身体全体が異常に熱くなっていた。12月5日高熱発生、一旦おさまったが明けて1月2日再発緊急入院、病状は一方的に悪化、最後となった手紙を1月31日久保博士に書く。大正4年(1915年)2月8日午前十時死去。享年37。赤彦は左千夫の時と異なり慟哭をささげる。
    観世音寺を訪ねるくだりは実に美しい文章である。その上で最後の作品となった「鍼の如く」其の五の創作と推敲、整理が節の命をちぢめる要因となった状況を描ききる。小説でありながら時たま解説のような文体が現われるが、最後の解説文的な記述は本作品の掉尾を飾るにふさわしい素晴らしい文章に思える。

 1989年初頭、文庫でさらりと読んで、暫くして何となく気になり再読、数回読み返した記憶があるが、上記のダイジェスト版を書き終わるまでに都合何回読んだのであろうか。おそらく十回を下ることはないと思う。しかし結論的に言えば、凡人には益々難解な作品であるという思いが増幅された結果となった。但し、素人の私にはその理由をうまく表現できないが、やはり著者が渾身の力を込めた最高傑作であろうという思いは変わらない。同時に本書に関しては「清水房雄氏」の解説ほど当を得たものはないであろうと改めて思う。

 冒頭に書いた疑問、すなわち多くの作品が存在し、且つ平輪光三著『長塚節・生活と作品』の作品を絶賛している藤沢周平が、何故本作品を書こうとされたのか。結論的に言えば、凡人に分かろうはずも無く無駄な挑戦であったことを再認識した次第である。唯、素人の浅はかな考えとして次のような思いが浮かんだ。以下におそれながらアマチュアの雑感を書きます。(~_~;)

 長塚節を題材にする場合、当然のことながら短歌に対して相当深く精通していることが必須条件である。小説家として持っている想像力・表現力などの資質以外に、短歌に関する造詣の深さが求められる。このような条件を満たしている作家はそれほど多くはないであろう。著者は闘病生活中にかなり短歌に関して勉強されたことはファンの知るところである。本書に書かれている短歌の評に関しても、多くの資料からその解釈を参照しているとは思われるが、最終的には著者自身のものとした解釈が殆んどであろうと思える。

 何事にも控えめで、目立つことの嫌いな方であったことは有名でありファンの知るところであるが、しかし藤沢周平とて人間である。後世に名を残すような純文学的作品への創作意欲があったとしても不思議ではなく、むしろ当然の帰結であろう。このように考えると、「短歌の世界・・長塚節」への挑戦は、まさに天が与えてくれた題材である。自分には書けそうだ!と思われたのではないか。私にはそのように思えて仕方がない。本書に現われる短歌に関する文章量の多さ・丹念な解釈そして当時の文学史などの記述は、本書が「吉川英治賞」を受賞したこことあわせ、あらためて藤沢周平にして初めて可能ではなかったか、と思わせるに充分な作品であろう。文庫本、更に全集に到るまでの過程で、執拗なまでの加筆・修正をされたようであるが、最終的に著者も充分に満足する作品となったのではないか、と独断で思い込んでいます。

 では何故伊藤左千夫、斉藤茂吉ではなく「長塚節」であるのか。少しだけ考えてみたい。斉藤茂吉は庄内出身である。雲奔る(雲井竜雄)、回天の門(清川八郎)など同郷の人物を既に取り上げており、些かの抵抗があったのでないか、同時に茂吉作品に対する藤沢周平の考えに、一般論として高く評価されている事とは少し異なった感慨があったかも知れない(想像)。伊藤左千夫に関しては、特異な性格などから相当の関心があったと思われる。したがって場合によっては「一茶」と同様、異質性という観点から思えば、左千夫の可能性もあったのではないかとも推測できる。しかし最終的には、同じ闘病の経験を持つもののみが理解できる節の心情、更に自身との同質性を見出したことによって、人間長塚節の人生と魅力を描くことになったのではないか。アマチュアの独断と偏見です。(~_~;)

 氏は学生時代以降、闘病生活等を通して作家としてデビューする以前から「浮世絵」「俳句」「短歌・詩」に相当造詣が深いことは、藤沢周平(作品)ファンの方方ならばよくご存知の通りです。
浮世絵に関して言えば『暝い海(71年)』で北斎、更に『旅の誘い(74年)』で広重、『喜多川歌麿女絵草紙(75年)』で歌麿を描いています。俳句の分野では有名な作品『一茶(77年)』を完成させています。残る短歌の世界についても書きたかったのではないか?その結果が『小説 長塚節 白き瓶(83年)』であり、これによって3ジャンルの作品が完成したと考える。このような観点からも書きたかったのでないかと推測する次第です。

 71年『暝い海』で文壇デビュー以来、凡そ10年経った81年ごろから構想を練り、83年別冊文藝春秋に連載を開始した本作品。10年という歳月が作り上げた藤沢周平の実績があって初めて、このような骨の折れる面白さを持つ作品を完成させることが出来たのではないか。出版社はぽっと出の作家の卵にこのような作品は依頼しないであろうし、自作を持ち込まれても商売の観点から出版するかどうか疑問である。藤沢周平の実績と力量をして遂に名作が生まれたことを感謝せずにはいられない。(それにしても難しい本ですね(笑)又藤沢さんの性格全てが解る本ですね)

以上

2006年9月、仙台文学館で行われた「藤沢周平の世界展」初日の講演で、出版社としては『石川啄木』を依頼したが、藤沢周平の意向で長塚 節に代わった、と言うエピソードが披露された。啄木とは女性観で相容れないのような気がし一人納得した。

ご意見その他は  たーさん  迄