小説 長塚 節 白き瓶考(5) (4)に戻る 

 (4)に引き続いて。

番号 メ   モ
ほろびの光 一・二 九州への旅の最大の目的は久保博士に診察をしてもらうことである。明治45年3月22日京都に到着、京都帝大で軽い気持ち見てもらうつもりが結果的に手術となり大きな誤算となった。予定より遅れ4月22日に福岡で久保博士の診察を受ける。「少し様子を見てから治療に」という判断で鹿児島への旅行を計画、旅費の手当てをして福岡を後にする。
  ここからは節の紀行文の如き内容となる。4月25日福岡を立って熊本、鹿児島、開聞岳、安楽温泉、国分、天草、長崎、佐賀と旅する。売春婦や博多節の哀愁、佐賀二日市の観世音寺の仏像の素晴らしさを語り、5月7日佐賀を後にする。その間筆まめに絵葉書を多くの友人に便りする。
    紀行文の如き本節はかなり綿密且つ詳細な行動が書かれているが、これらは資料が豊富にあるのであろうと推測される。観世音寺の仏像や鐘に対する感想も書かれているが、文章としては普通のものであり、特に感銘を受けるというものではないように思う。
  5月10日久保博士の診察で治療方針が決まる。入院の必要もなく患部を電気焼灼するという。時間的余裕があるため節は北九州地方の旅を試みる。その間「土」が春陽堂から出版されるという嬉しいことがある。しかし病状は芳しくなく帰国することを決意し、最後に壱岐・対馬まで足を伸ばし、再再度観世音寺を訪ね大分中津に向かう。
    節の旅の行動を見たとき、時に飢え渇くような性急な感じが現われるのは、歌わない歌人、書かない作家である節の、創作の代償行為の様なものであったろう。歌も文章も出来ない中で心惹かれる旅の風物を見るということだけが、生甲斐なっているのである、と藤沢周平は書く。病状が回復しない心の内と合わせなんとも言いがたい文章である。
  五・六 話は節から少し離れ、左千夫とその弟子である茂吉の対立の話を中心に、若い歌人達が新しい時代の歌を模索し、のた打ち回る姿を全く理解しない左千夫の様子が語られる。明治37年頃からの文壇の文学状況が説明され、多くの有名作家や作品、雑誌が登場する。左千夫の批判にも茂吉は動じない、彼もまた何かを摑みかけていた。
    岡千里を認め茂吉を認めない左千夫の考え方を通して、左千夫の置かれた立場を再三にわたって書くことは不可欠な事柄なのかもしれない。同時に本作品が『吉川英治文学賞』を受賞した要素のひとつが、第六節で詳細に書かれている所謂、文壇の歴史的な事実を見事に纏め上げている点であるのかもしれない。閑話休題というような感じで司馬遼太郎の作品には比較的よく現われる形である。時には文庫一冊になるほどの量になる作品もあるが、藤沢作品では極めてめずらしい。凡人の私には小説として読んだとき難しすぎて内容など理解不能である。作家はときに作品によってこのような書き方をしたくなるものなのかもしれない。
  七・八 しかし再び二人の衝突が生じる。島木赤彦の作品をきっかけに左千夫は「アララギ」の最近の状態にまで言及、茂吉も反論する。著者は再度左千夫の性格について語る。種種の確執の後「アララギ」廃刊の話しまで行くがとりあえず続刊となる。両者の冷え切った関係は翌年の左千夫の死まで続くことになる。茂吉たちにとって左千夫は、もはや単なる頑迷な批判者にすぎなかった。五〜八迄節自身は殆んど登場しない。
    ここでも左千夫の家父長的な性格をはじめ、自己中心的な攻撃性が語られる。その上、彼の愛人「岡村チカ」に宛てたひらがな中心の手紙までが掲載される。エッセーにも多少書かれているが、ここまで読んでくると、藤沢周平が伊藤左千夫に関して並々ならぬ関心を持っていたが想像できる。少なくとも本作品を創作しようとした要因のひとつであったことは間違いないと考える。
  明治45年7月。話は節に戻る。上記論争が続いている頃節は未だ旅の途中であった。ここでも節の紀行文的な内容が綴られる。7月5日福岡郊外の吉塚駅を出発、中津、耶馬溪、英彦山、新耶馬溪、青を観て7月14日に別府に到着。雨の多い旅であった。節は自分がひどく痩せたことに気付く。元気を取り戻すと別府から伊予高浜、道後温泉、そして瀬戸内を彷徨し高松に。この日7月30日明治は終わる。更に関西を巡り国生に帰ったのは9月26日。3月16日以来実に半年をかけた旅行であった。
    結核性の病気に対する当時の認識に些か驚く。ここでの雑感は特になく本文をゆっくりと読むのみである。明治から大正に変わった時の節の思いが現代と異なっていることは当然であろう。漱石然りである。昭和から平成に変わった時、著者はどのように感じたのであろうか。
  大正元年10月左千夫の発表した「ほろびの光」は若い歌人たちに一撃を加えた。茂吉は感動を伝えるため左千夫を訪問。左千夫は素直に喜ぶが、茂吉は彼の顔に感じた、卑しいそして歌のことなど考えていない表情をみて感激がさめるのであった。一方帰郷した節は喉の調子が悪く不安の中、展覧会などをぶらついていた。漱石に会い彼が書いてくれた「土」の序文に礼を述べるが、その内容に些かの拘りが消えなかった。
  十一 大正2年3月14日節は再び九州に出発。大阪等を経て久保博士の診察を受ける。結果は意外にも全治、夫人のより江さんとの会話は饒舌であった。寄り道をしながら22日京都を出発し帰途についた。一方左千夫は借金にまみれており「ばれる前にうまく死ねたらいいな」と思う。そして7月30日自宅で倒れ午後六時に死去。節は心の中で一種の重苦しい圧迫感を取りのぞいた思いを感ずる。同時に自身の孤独が身に沁みる。
    ほろびの光と題する本章は、主として左千夫を語っていることが自然に納得できる。著者はどうしても本章を書きたかったとのであろう。節に関して考えれば、大旅行家としての詳細な実史を余すところなく書き上げ、節自身の感じた仏像などへの思いが見事に描かれている。この間創作を全くといってほど行っていないことがよく理解できた章でもあった。左千夫の死に際して持った節の心情は凡人の私には分からない。

 歌人の死に続く


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