(1)に引き続いて。
節 | 番号 | メ モ |
亀 裂 | 一 | 明治41年1月発行の「馬酔木」に『初秋の歌』が掲載さる。結局「馬酔木」はこの第四巻三号をもって終刊となるが、この傑作を一年後斉藤茂吉が絶賛をする。物語はここから暫くは節の話から離れ、左千夫に転ずる。左千夫は「野菊の墓」を発表、森鴎外、佐佐木信綱等との接触、又短歌以外でも多忙を極めている。そして「馬酔木の」後継誌問題、彼は後継誌を任せる人物として三井甲之を意中に持っていた。しかし我執の強い彼に不安も抱く。 |
節は茂吉が東京帝大に入学した明治39年3月18日に初めて会っている。茂吉は藤沢同様山形の出身である。ここでも左千夫独特の、おおらかさと猜疑心が巧みに語られる。同時に農村、山村に育った人間ならば気が付くであろう『初秋の歌』の「把握と凄み」に気付かない左千夫や甲之を語る。 | ||
二 | 物語は更に左千夫、甲之の関係に迫る。二人の出会いは明治37年。師弟としての密月関係から甲之を信頼する左千夫。しかし39年半ばから一般文学・短歌をめぐって激しい論争が始まり、二人の間に亀裂が見え始める。そして二人の相手に対する悪口や確執が累々と語られる。更に「観潮楼歌会」における、何も気付かない哀れな姿の左千夫が描かれる。それでも後継誌を「アカネ」と称すと発表する | |
甲之に誘われて一度だけ「観潮楼歌会」に出席した節が、左千夫と団子坂を下り根津から池之端に向かう文章は圧巻である。小説というものの真髄を見たような気がする。ここでの節の役割・性格に藤沢周平は共鳴しているとみて間違いない。まさに藤沢周平そのものではないかと思ってしまうが・・。 | ||
三 | 物語は再び明治41年春になる。多くの難問を抱えていた左千夫が「初秋の歌」に関心をとどめた形跡は希薄である。左千夫は主観的傾向をあからさまにして41年2月「アカネ」創刊号、42年1月「阿羅々木」に作品を発表、次第に自然よりは人間に興味を移す。更に「観潮楼歌会」をバネにして新しい方向の論理を確立しようとする。節はいよいよ自然に興味を深める。遠慮がちの性格の中にもかなりの自信を持つ。そして続々と歌が出来る。しかし41年2月「アカネ」創刊号に発表した『晩秋雑咏』は散々な失敗作となる。子規という同根から出発しながら、二人の歌境は隔たってゆく。 | |
「早春の歌」「初秋の歌」を通して藤沢周平の短歌に対する造詣の深さをあらためて知る。短歌をこれほどまでに解釈できる小説家がいるだろうか。『客観写生歌』という作品が「感じを表す」という境地に達したものである、と理解し「いわば物を直視して背後にある物まで詠んでしまったのである」とまで言い切る。(藤沢自身の言葉であると思っています) | ||
四 | 節は41年3月号の「ホトトギス」に小説『芋掘り』を発表、虚子から傑作とほめられる。左千夫と岡麓も小説を発表していたので、処女作の好評に安堵する。入った原稿料で4月10日から京都、吉野、奈良を旅する。節にとってはじめての華やかな遊び体験である。更に8月20日から上信越三県境界が集まるあたりに旅をする。そして作品「濃霧の歌」が完成。著者はその「興来たらば作る」と言う日を9月20日と断定している。茂吉が絶賛、左千夫も佳作と認める。 | |
節はめずらしいものを見たり、体験したりすると旅先からせっせとその見聞を書き送る性癖がある、と書いている。そして『あらかじめ葛藤を避けるため用心深い性格は・・・周囲からは冷たさを云々されることにもなるのだが・・・』藤沢のエッセイでも庄内で身に付けた用心深さ云々があり、ここでも性格の同一性が覗える。 | ||
五 | 節が10月25日付けで島木赤彦へ宛てた手紙を通して、節の左千夫批判が展開される。節自身もそれなりに感じてはいたが、佳作といいながら左千夫は「濃霧の歌」が『遥かに時代後れ』とけなし、一方で左千夫は自作の「秋草のしげき思ひ・・・」に対する批判には一歩も譲らない性格に『何と申しても小生は不服である』と立腹の苛立ちを書く。これまでも二人の性格が異なる事は明らかであるが、ここでは節の左千夫に対する敵意に近い感情が吐き出されるのである。二人の間に何があったのか。 | |
六 | ここでは二人の関係に亀裂が生じた経緯が語られる。話は少し遡り子規没後、節と左千夫は子規の遺墨を換金したが、それが問題となり節は左千夫に収拾を依頼。9月15日その結果の手紙を読む。問題は解決したがその後に書かれている文章に憂鬱になる。その内容は三井甲之との関係で、親友として左千夫をとるか甲之をとるかという激しいもので一方的であり不快であった。そして「アカネ」編纂に関する左千夫と甲之の意見の相違が累々と語られる。 | |
七 | 10月22日上京した節に左千夫は更にしつこく甲之との関係を切るよう迫る。その上「濃霧の歌」は時代遅れと批判する。癒しがたい暗い失望と憤怒をかかえて帰宅する節。気持ちの中にその波立ちがおさまらないうちに赤彦に手紙を書くが、一月ほどして左千夫に対する静かな許容ともいうべき気分がやってきた。しかし左千夫との間に、以前に増して深い距離が出来た感覚は消えなかった。 | |
左千夫と同根でありながら、一人節の心だけが左千夫から離れてゆく様が描かれる。それにしてもあらためて、左千夫の独断的な性格は凄まじいと感じる。純粋なのかそれとも傍若無人なのか。藤沢周平はエッセーにもあったが、その性格にかなりの関心を持ったのかもしれない。これも書きたくなった要因のひとつか?。 |