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『蝉しぐれ』における海坂藩の地図情報

 蝉しぐれの地図作成を断念した経緯については、海坂藩作品の雑感2で書いた通りです。その時作品全文から地図作成に際して参考となる文節を抜粋したのが以下の表です。凡そ110箇所程度の文節が存在します。勿論手作業ですから精度としては完璧ではありません。

 文章の解釈・疑問点に関しては、たーさんの個人的な解釈(読解力の貧弱さ)であり、疑問があるかもしれません。唯、全文を読んで調べることはかなりの労力を必要としますので、とりあえず参考にして頂き、疑問点に関してご自分で作品をお読みになり再確認をしてください。

 ここでは文庫本のページを掲載しています。私の調査では、単行本と文庫本で記述の異なる箇所が三箇所あります。異なる箇所は表中のPG欄の色が変わっています。(単行本(1988/6/15三刷)初版ではありませんが一ヵ月後ですから初版と同じと思っています)地図作りの際にはご利用してみてください。

参考となる文節

PG

場所 作品の文章(文庫本) 文章の解釈・疑問点
9 普請組の組屋敷 城下からさぼど遠くない南西の方角に起伏する丘がある。丘の懐から流れ、組み屋敷がある城下北西の隅にぶつかったあとは、すぐにまた町からはなれて蛇行し北東にむかう。
単行本では城下西のはずれ、文庫本は城下北西の隅
普請組屋敷は城下の北西で間違いなし。


単行本と文庫本で記述が異なる。文庫本で修正したと思われる。
文庫が正しいと思う

9 城下西の川 末は五間川の下流に吸収される。 北西から東にカーブし、城の北側を通り城の北東で五間川に合流すると思われる。
したがって五間川は城下の東をかなりの間、北に向かっているのではないか。城の濠を過ぎてすぐに東に蛇行するより、しばらくは北上するか。蛇行したとした場合は再び北に蛇行するのか。このことは以降の千鳥橋の位置関係で重要である。
10   屋敷の裏手に流れを所有
建物は小さいが場所が城下のはずれ。
と言うことは、それより北と西は田圃か丘か?。
12 組屋敷の西 はるか遠くの青黒い村落の森に接するあたりは夜の名残・・・田圃を見回っている人間がいた。 これによって普請組の組み屋敷の西は田圃であることになる。
15 組屋敷
矢場町
「一度もどって来たらいいではありませんか」組屋敷は、居駒塾がある青柳町と道場がある鍛冶町の中間にある。町名は矢場町(P47) 矢場町からの相対位置が判明、矢場町が西はずれと仮定すれば、青柳町(居駒塾)は南か?鍛冶町(石栗道場)は東か?この時点では確定できないが・・。
18 松川道場
御弓町
熊野神社
御弓町にある一刀流の松川道場と恒例にしている熊野神社の奉納試合。 位置の記述なし、ここでは特定できず。
19 石栗道場 道場がある鍛冶町から、裏道を少し歩くと五間川の広い河岸通りに出る。
稽古着をかついで河岸通りを南に歩いた。
道場と五間川は近い。よって石栗道場は矢場町から見て東の方角
この時、橋は渡っていない、そのまま河岸に向かう。
上流に向かっているように解釈できる。南にむかって川のどちら側を歩いたか、ここでは不明。しかし後に東側と判明する。(22ページ)
22 石置場 三人はあやめ橋の橋袂の上流にある石置場に入り込んだ。 川の東側を南下した場合は、道場は五間川の東、
西側を南下したとすれば道場は五間川の西となる。しかし結果としては東側を南下で間違いない。
この時点では石置場はあやめ橋の上流にあるようだが、27ページの記述ではあやめ橋の下流と思え、些か矛盾するのではないか。
22 魚市場
商家
日の位置はいよいよ低くなって
もう少しで対岸の商家・・・魚市場の屋根の間に落ちる。
したがって川の左側(東側)を歩いてきたことになる。
よって魚市場は五間川の西側にある
結果として
道場は五間川の東と思われる
(ここまでで橋を一度も渡っていないとすれば)
27 魚市場
石置場
石置場から見たシーン。
家並みのうしろ南西の方角に黒く盛り上がっているのは城の木立である
これだけ位置がはなれているのに
五間川は城の外濠とされていた。
魚市場は城のやや北東で、城と五間川の西岸の川沿い。
石置場は五間川の東で、城のやや北東
城と五間川の距離はかなりある。
それなりの町が存在するスペースがあると推測できる
27 あやめ橋 三人は立ち上がって道にもどった。又ぶらぶらと南に歩いていった。
「おい、そこから帰らなくていいのか」
文四郎の家は
あやめ橋を西にわたって帰るのが近い
「いいんだ。おまえらを送ってゆく」
ここでは石置場の上流があやめ橋となる。22ページと矛盾する。一体、石置場はあやめ橋の上流、下流のどちら?。
逸平と与之助の家は少なくともあやめ橋よりは南である。
この文章でも川の東側を歩いていた事が明白である。
28 行者橋

あやめ橋の上流にかかる行者橋に近づくと、城からさがって来た男たちが渡ってきた。
行者橋はあやめ橋の上流(南)
行者橋は城から東に五間川をわたって下城する場合、最短の橋のように想像できる。
したがって城の中心から真東が妥当であろう
ぶらぶら歩きながらやや北東→真東まで来たと推測できる。
28 漆原町
逸平の家
どこの家の子か 漆原町の小和田逸平です。 漆原町は行者橋より南と推測できる
29 行者橋 ふんぎりがついて文四郎は行者橋から帰ることにした。 このことから二人の家は行者橋よりも南であることが推測できる
ここまでの文章の範囲では、橋を初めて渡るので、
石栗道場は五間川の東にあると推測できる
33 熊野神社
神明町
神明町にある熊野神社。鉾山車計27台、振る舞い酒。 神社のある町名は判明するも、位置は特定できない。祭りの様子から判断すると、現在の鶴岡天神祭りが参考となるかも・・・しかし邪道な考えか。
34 白萩御殿 城の外にある藩主家の休息所。巡行前の踊り子・・・行列が市中を練り歩く前にまず自分が見学。 城の外の表現からすると、城のすぐ近くであろう。
ここでは場所は特定できない。しかし、熊野神社(神明町)との遠近は不明確である。熊野神社に集結する際にここを通って行く山車などがあるのであろう。
34 目抜き通り 祭りの行列が過ぎる目抜き通りの商家。 目抜き通りとはどこかは不明。雰囲気としては五間川沿いの商人町のようにも思える。P37の記述から五間川の東であろう。
37 有明町 帰りがあまり遅くならないように。
暮れ六ツに熊野神社の門前を出発すると、途中有明町の茶屋で半刻の休み。
夜明けまでかかって城下を一巡。順路と時刻はおよそ決まっていた。
熊野神社から一巡の半分ぐらいの場所であろうが、特定はこの時点では無理。一巡とは城下をぐるりと廻るのだろうか、それとも五間川の両岸を中心に巡行するのであろうか。
帰りが遅くならないように、比較的早く巡行する場所を二人は目指すはずである
37 吉住町

神明町
文四郎とふくは五間川をわたって吉住町の角まで行った。目抜き通りではないが行列が通る商人町である。 商家・商人の町、よって五間川の東である
渡った橋が明記されていないのが残念である。
文四郎の家からの道を考えると五間川の比較的下流かも知れない。一巡の道・・五間川沿いでは、はじめは五間川の東の道が想定される。
吉住町は五間川の東で間違いない。スタート地点の神明町もここからさほど遠くではないのは。何故なら宵の口に通過する場所だから。とすれば、神明町は吉住町の南又は東が想定され、行列は先ず北上か西下したのかも知れない
42 喧嘩の場所 河岸だ。あんなところまで連れ出しやがった。
裏通りなどを相当駆ける。二人は河岸通りに出た。
与之助は河岸でやられた。よってここでの河岸と住吉町はかなり距離がある?。
橋を渡った形跡は無い。北上する五間川の右(下流に向かって)の可能性がある。五間川は東に蛇行するとの記述は無い。蛇行すると仮定すれば、蛇行した下流の南側の河岸か。
51 郡代屋敷 太鼓は三ノ丸の郡代屋敷の櫓にあり。 城の三ノ丸にある。場所は特定できない。
51 狐町 狐町の長屋に住む常雇いの普請人足。 この時点では特定不能
地位からして普請組屋敷よりは不便なところか?。
53 元結町の木戸口 屋敷町を抜け、無人の商人町を抜け、
二人は城まで一番近道を(矢場町から)
元結町の木戸口から濠にかかる橋をわたって城内に入ると、すぐ三ノ丸の一角に灯のいろが。
よって城の北西にある木戸口であろう。
元結町は城の西に近い北側か、北に近い西側か。
北側か西側かは不明。三ノ丸は城内の北西側?。
54 与力町
天神町
曲師町

鷹匠町
染物町
浜街道
近江小路
この風雨で与力町、天神町、曲師町が出水した
放置しておくと鷹匠・染物・浜街道・近江小路に及ぶ
これらは城の南東と推測五間川の西か東かは判明しない。放置しておくと危険な町、鷹匠町以下はより下流で城の近くか?。
天神町は後に文四郎が住む町
染物町は与之助の実家がある町染物町の方が下流かも知れない
神明町(熊野神社)が出てこない。これらの町より下流なのか?。浜街道は城の南を西に行く街道か?これは根拠の無い推測であるが。
55 馬揃えの広場 作業隊は馬揃えの広場を駆け足で横切り市中に入った。
更に増水した五間川の行者橋を渡る。
当然城の東側である。城と五間川の間にも市中があることがわかる。
同時に行者橋は、城の真東として間違いないであろう
56 柳の曲がり 五間川上流、金井村鮫口
城下の町々を斜めに横切って市外を流れる五間川に出た。そこからおよそ半里、川に沿って東南方にさかのぼったところが柳の曲がりである。(P56)
行者橋の上流を五間川は少し南下してから南東に向かっているように思える(斜めに横切っての表現から)
そこをショートカットして川岸に到着。
そこから凡そ2キロが柳の曲。南東から南に曲がるようである。
58 鴨の曲がり 鴨の曲がりまでわずか三町(330メートル)
五間川が大きく向きを変える場所。
柳の曲がりの上流330メートル。南から向きを変え西に行くようである。P60の文章からヘアピンカーブが想定される。
59 金井村・青畑村 川の上流と思われる暗い原野に明るい灯が動いて。 鴨の曲がりの上流にある
60 鴨の曲がり 曲がりの土手はふつうの川岸の倍近くも厚く補強されている。 一般に蛇行している場合、外側の流れが深い。と言うことは上流に向かって南から西に曲がっていると思われる。そして再び南に向かう。(上流へ)
作業は五間川の南東側で行われていると推測
65 石栗道場への道
青柳町・
駒井塾
普請組屋敷から道場のある鍛冶町まで往復半刻(1時間)はかかるだろう。 よって片道30分の距離である
約2キロメートル程度?
よって居駒塾(青柳町)はその反対約2キロ、その方角は南であると想定できる
すなわち矢場町の西は田圃だから。
66 漆原町
逸平の家
それに文四郎の足は鍛冶町ではなく、逸平の家の方に向いている。 逸平の家に行くのは回り道になることが分かる
道場に行くには直進すれば五間川に出るが、南に右折したことが想像される。
逸平の家は行者橋よりも南・・・したがって城の西側を南下しているのではないか?
68 漆原町
逸平の家
家を出て二人は五間川の河岸通りを北に歩いて行った。 このことから漆原町は、城の南か南東にあると想像できる
五間川(西側)沿いか、それとも五間川よりはなれてもっと西(城の南)にあるかは不明。
問題は河岸通りである。五間川の東か西かである。これによって道場の位置が大きく変わる
家を出て橋を渡ったという記述が無い。普通に考えれば西側を北上したと思えるが・・・。
69 小舟町 吉村の家は二十石の小禄で、山吹町とは反対側の五間川の東。 五間川の東であるが特定できない。
69

70
白萩御殿

山吹町
山吹町は白萩御殿の西にある家中の屋敷町。
山吹町は百石、二百石の中級家臣が住む町。
西はもう村方の田圃、南は馬場前、北は代官町
白萩御殿の位置が特定できれば、その西である。白萩御殿は城のすぐ外とすれば濠の北か西か?。白萩御殿の南と東に何があるか不明、どちらかは濠であろう。
城の西にあるとすれば、山吹町はかなり城から外れる。中級家臣が住む町としてはやや不自然。ゆえに白萩御殿は城の北側が想定される馬場前は城の西側が妥当である
70 馬場前 山吹町の南は、城の濠ぎわまで重役の屋敷が並ぶ馬場前と呼ぶ屋敷町。 この文章は重要である。馬場前は城の真西にあるのではないか?。とすれば白萩御殿はやはり城の北側で西の角ではないか。
70 代官町 山吹町の北隣で、中級家臣が住む代官町。 馬場前より少しだけ不便なところ?ここまでで以下の状況が判明。白萩御殿の東に何があるかが分かれば確実だが。
白萩御殿が城の西にあるとすれば、御殿の南は一体何か。
広場か?。
    代官町

田圃  山吹町 白萩御殿

    馬場前 お城???
70 松川道場御弓町 吉村は御弓町の松川道場で目録。 特定できない。
72 石栗道場

鍛冶町
五間川を北に行き・・遠くに千鳥橋が見えてきた橋を渡ると町は鍛冶町と変わりすぐ道場の門が見える。(P68からの続き) 初めて千鳥橋が出現する。
この場合二人は川の左側(お城寄り)を歩き、千鳥橋を右折するのであろうか。(P68から推測では左側)
千鳥橋が遠くから見えるということは五間川はまっすぐ北上している状態?。
右折したその先に道場がある。正面か左右か不明。
すなわち鍛冶町・石栗道場は、西側から千鳥橋を東に渡ったその先であるとの推測が成り立つ
75
77
漆原町
(逸平の家)

普請組屋敷
竹刀はじめの帰り道
文四郎と逸平は、いつもどり千鳥橋を渡って河岸の道に出た。
二人は話に熱が入って漆原町まで一緒に歩き、逸平の家が見えるところ来て、
いったん城の南まで歩いてきた道をまた城下の北はずれにある自分の町に向かって引き返した。
道場を出て千鳥橋を渡って直進か曲がったか不明。
逸平の家は道場より南にあるので、左折して南下したと推測できる。
したがってここまでの記述では、鍛冶町すなわち石栗道場は五間川の東である可能性がある。
よって漆原町はお城の南と五間川の間であろう
はずれとは、漆原町からみればではないか。実態は北西にあたると推測できる。
道筋としては北上してから、はずれの西に向かう。よって逸平の家は、城下の南東か。

文四郎は北上して帰宅したのであろう。
矢場町は城下の北西で間違いない。
井上ひさし氏の指摘もあるが、しかし間違いではなく、普請組の屋敷は城のはずれの北西にあると解釈できるのである。
このことから、、文四郎の家と逸平の家は城をはさんで、北西の奧と南東の城近くという対角線にあることが分かる。
89 五間川の
千鳥橋
杉内と文四郎が千鳥橋わたって河岸の道まで来た。 彼等は五間川の東側を歩いて南下している。それは(P91通蔵と別れてあやめ橋を西にわたったで明白である)
ならば何故千鳥橋を渡るのか。不可解である。
作品の冒頭では、橋を渡らず五間川の東岸を歩き石置場に行くが、ここでは千鳥橋を渡ってから東岸を歩く。渡ってしまえば五間川の西を南下し、あやめ橋に向かうことになり、再び西に渡るのはおかしい(P91)
この点では明らかな矛盾のように思える。この箇所は重要である
道場は五間川の東にあるのか、東に蛇行した川の北側にあるのか
。作品の冒頭の文章では、五間川はかなり北に向かって流れるように思えるが・・・。
90 五間川の
橋橋
向こう河岸の道を北に走って一隊を・・代官町の方に曲がる。
今度は前方に見えてきたあやめ橋に、槍隊が・・西から東にわたると、河岸をに駆けくだって行った。
代官町は城の北西がはっきりする
あやめ橋を渡った一団は行者橋の方に向かっている。
三つの橋の位置が明らかになる
下流から順に千鳥橋、あやめ橋、行者橋となる。
91 あやめ橋
道蔵と別れあやめ橋を西にわたった。
急いで帰宅する文四郎ゆえ、多分あやめ橋の真西の方向に家があるかもしれない。
真西が城内であれば、多少北上して西に向かうことになる。あやめ橋はお城の濠の北東の隅の東側にあると想定できる
91 内匠町 役持ちの拝領屋敷がかたまる町。 少なくとも五間川の西で矢場町へ行く途中にある
91 矢場町
御弓町の修練場は、その後鉄砲組・・・城下西の早苗村に移った。
単行本は御弓組、文庫本は御弓町
ここの文章は御弓組の説明である。御弓組は以前は矢場町にあったのであろう。
ここは単行本の御弓組が正しい文庫は誤植
92 矢場跡 矢場の跡地はまだ残っていた。組屋敷のはずれ、道をへだてた向こう側。
三方を雑木林に囲まれた空き地。
空き地の前を通って矢場町の自宅に帰る。
99 鷹匠町 文四郎の実家、服部家のある町
百二十石の家柄
特定はここでは無理。
103 龍興寺
百人町
龍興寺は城下の東北、百人町にある曹洞宗の寺。 現在の龍覚寺を想定すると、距離感が参考にはなる。
曹洞宗としたのは訳がありそう。
111 百人町 百人町はその名が・・・足軽百人・・城下の北東の隅にあって 城下の北東の隅、不便な場所
112 旧街道 旧街道の跡だというその道
龍興寺から帰る途中にある道。
まわりは畑。
119 龍興寺
百人町
龍興寺のうしろは、田畑や雑木林が残る・・わびしい商人町 わびしい商人町
124 龍興寺→矢場町の道順 のろのろと車を引き河岸の道に出た。そして道を右に曲がった。その道は矢場町に出る近道だった。
(武家町、寺町、商人町を経由)
スタートから暫く南下して、五間川の西側の河岸道に出たと推測できる。川沿いを行かず、右に曲がり西の方向に行く近道を選択したのであろう。ショートカットである。河岸の道に出たという記述から五間川はここあたりまでは北上していると思える。
125 百人町
龍興寺→矢場町の道順
足軽屋敷はずれまで来たとき。 西に曲がってしばらく進んだ場所であろう。坂はこの先である。
125 龍興寺→矢場町の途中地点 千鳥橋をわたろうとしたら、牧さんの車が見えたんです。(杉内道蔵の話) 文四郎の引く車は、千鳥橋から北に見通せる場所と推測できる。
126 矢場の坂 のぼり坂の下に来た。ゆるい坂の上にある矢場跡の雑木林 矢場跡の手前、この坂を上りきれば矢場町。
128 葺屋町 葺屋町は城下の東南のはずれで、町の裏手に出ると田圃越しに五間川の岸が見える。
矢場町からは、城下の端から端まで歩くほどの距離。七軒長屋(P131)
位置としては城の東南。よって矢場町は明らかに城の北西
葺屋町は明らかに城下の南東のはずれである
町の裏手に田圃その先に五間川・・・裏手とはお城に向かって反対側とすれば、五間川の西側?になるのだが・・・。
144 新鍛冶町 鍛冶職人が集められた町で、
城下の南に新しい町を作っていた
城の南であることは間違いないが・・・。
144
148
金山橋 文四郎は井戸の蓋をして、道場からでる。
以前はそこから見る千鳥橋をわたって帰るのだが、今は五間川に沿って河岸の道をずっと下流まで歩き古びた木の橋、金山橋をわたる。葺屋町の自宅に帰る。
位置から言うと城下の東の端。
文四郎は足早に抜けて・・・葺屋町に入った。
この文章は全体的におかしいのではないか。矛盾がある
先ず下流に向かうことがおかしい。城からみると北東にあたり、南東にあると思われる葺屋町とは方向が違う。
千鳥橋を渡らず、そのまま五間川沿いに上流に向かって南に進むべきであろうと思うが・・・。ここから葺屋町の自宅は少し納得できない(P149)128ページの記述とは矛盾すると思う。遠回り過ぎるのでは?
この文章をそのまま解釈すると『朝日ビジュアルシリーズ01』の如く、葺屋町は城の北東になってしまう
149 葺屋町
の家
文四郎は橋を渡って、五間川のむこう岸まで行ってみた
文四郎は五間川の下流の方に歩いて言った。
ふくの家は城下の西北である。よって文四郎の家は下流に向かって右側であろう。したがってP128での判断と異なり、五間川の東側ではないか。故に一旦橋を渡って西側に来たのである。
葺屋町が千鳥橋の下流であれば、上流に歩くのが普通であり、やはりP144の記述はおかしい
166 鷹匠町 鷹匠町 文四郎の実家(服部家)だが、特定できない。P172の記述から、城の東側のようである。
166 家老屋敷 馬場前 馬場前の家老屋敷だが、ここでは同じく特定できない。今までの判断から城の西、濠のすぐ近くか
172 鷹匠町 二人はいつの間にか行者橋まで来ていた。
さあ、ここから帰れと市左衛門は言った。
文四郎が渡って行く方の川岸はずっと川下の方に提灯がひとつ。
馬場前からどの道を帰って来たのであろうか?城の南か北が判れば鷹匠町が推測できるが・・。いずれにしても行者橋まで来たということは城の東にあるということか。文四郎は行者橋を渡り、兄は渡らず北上すると仮定すれば、鷹匠町は城の北東か
174 逸平の家 逸平には塾に行く途中に寄って知らせました。 葺屋町から塾(青柳町)に行く道でそれほど遠回りではないらしい。
城の南側の道を通るのであろう。P75の位置でほぼ間違いない。
179 与力町 お家は与力町にあります 小柳家の移転先。特定できない。
197 道場と五間川の関係 道場を出て・・文四郎が五間川の河岸の方に歩いてゆくと ここでは千鳥橋は渡らないで河岸に出る。これでも良いのだが・・・。
198 道場を出て 道場から河岸に出ると、右手の千鳥橋の向こうに町の目抜き通りの灯が・・そちらは文四郎が行く方角ではない。 この場合かつては橋を渡ったが、今は葺屋町に帰るので、橋を渡らず南下したと推測できる
しかし下流に向かうことも考えられる。全ての問題は道場と千鳥橋の方向感覚である
千鳥橋は道場の南にあるのか、西にあるのか
206 五間川 葺屋町の上流で東に曲がる 逸平を送って五間川の河岸まで来た帰りに上流を見た。
この曲がりは柳の曲ではないらしい。
221 与之助と
文四郎の
家の相対位置
文四郎が河岸の道に出ると川の下手の方に島崎与之助が姿を現した。 染川町に三人で出かける前に与之助と会う。
場所は五間川の東側で文四郎は上流から、与之助は下流からきて二人は合流する。
222 魚市場 日は傾いて対岸の・・・魚市場の屋根の方に移るところ。
逸平の家を出るころにはちょうどいい時刻になるだろう。
河岸を北に向かって歩いている(川の右)と想定出来る。
二人が会った場所は、漆原町より南である。
223 逸平の家 二人は長い影を曳いて橋を渡った・・歩いてきた対岸の町が、かがやくように 長い影の表現から、川の右側(東)から左側(お城寄り)に渡って逸平と落ち合う、すなわち夕日に向かって歩く。
渡った橋は行者橋より上流であろうと推測。
よって漆原町は五間川の西で、城の南東又は南であろう
224 染川町 下城して来た逸平が着替えるのを待ち、三人が再び橋を東にわたったのは。 二人は橋を渡って西側に行き、逸平を待って再び橋をわたる。染川町は五間川の東で間違いない
全体的に納得できる。
225 染川町 三人は軒下に灯が出ている商人町を横切った。 彼等は東に向かっている、したがって商人町は南北に長くあるのではないか。(横切ったの表現から)
227
228
染川町の様子 少し来たところで四辻があっただろう。あの左右の路どっちに行っても奥は遊郭だ。 町の入り口付近は料理茶屋、中心から左右は遊郭。砧屋は四辻の奥のほう。
238 染川町の様子 二人は町を抜け出て染川町の端を流れる小川の橋まで来た。 染川町の入り口は南北に流れる小川があるようだ。
256 熊野神社 神明町の真ん中。 P33い続いて2回目であるが場所は全くわからない。
278 葺屋町

石栗道場
文四郎は五間川にかかる橋を西にわたった。
文四郎は河岸の道から鍛冶町の通りに折れ、やがて石栗道場の前に立った。
単行本では北にわたった、文庫本では西にわたった
道場に出かけるシーン。
葺屋町は五間川の東で間違いない。西に渡って、川の西側を北上したであろう、そして多分右折した。
このあたりいささか難解な文章である
石栗道場は五間川の東のように思えるが・・・

多分文庫本が正しいと思われる。著者が修正したと思われる。矛盾が無くなる。

280 織部の家 代官町の奥にあって、杉ノ森御殿と呼ばれて。 代官町の奥の意味は・・・
道場からみて一番奥のほうということか(西)。
281 代官町

織部正の家
鍛冶町から代官町までは、間に商人町をひとつはさんでいるだけで、さほど距離はなかった。
それは夜目にもわかる黒い森だった。
代官町を奥に歩いてゆくと見えてくる屋敷。代官町は一応特定できている。代官町の東は商人の町であることは間違いない。鍛冶町→商人の町→代官町(西に向かって歩く)
292 郷方に替わった文四郎の家 天神町のはずれ。 新しい家は天神町であることが分かるだけである。以降の文章では、文四郎の家は天神町である。
300 内藤町 内藤町の富井さま 禄高75石の富井家住む町、場所は不明。
301 天神町 郷方の組屋敷は二ヶ所にあって、どちらも町方の家々の中にあった。 この時点では場所は特定不能。五間川の東か西か、この時点では不明。P54で出水したとある。

301

染物町

与之助の家
島崎与之助の家は五間川が増水するとじきに水が出る染物町にあり。 よって染物町は五間川の近くであろう。染物町と天神町が隣接しているのかどうかは定かではない。しかし同じ郷方であるから、それほど離れてはいないのではないか。ここもP54で出水したとある。天神町の下流に染物町か(P54から推測)
301 天神町

檜物町
文四郎が住む組屋敷は檜物町の裏手にある。どちらも比較的城に近く、表通りに出ると城の木立と石垣の一部が見えた。 どちらとは染物町と天神町のことか、それとも檜物町のことか。少なくとも葺屋町よりは城に近いようである。
301 天神町

檜物町
西空には間もなく暮れようとする日があり、その日射しは城の木立の肩口のあたりから斜めに町にさしこんでいるのだった。
檜物細工の匂いなどの文章がある。
檜物町を歩く文章表現からすると、河岸の道の方に歩いている。(P303)
天神町と檜物町は城の南東か、東か特定できない。
303 天神町 河岸の道にぶつかる三叉路まで出てきた道を引き返した。 どうも城の東か南東か南か特定できそうも無い。イメージ的には五間川の西から歩いてきたように思える。
したがって、あえて推測すれば五間川の西、城の南東の方角か
314
郡代屋敷 見習いで三の丸の郡代屋敷に仕出し。 郡代屋敷は城内の三の丸にある。
319 欅御殿 金井村の西のはずれ・・・
真東にのぞむ国境の山。
ここでは西のはずれと言っているが・・・。とすれば金井村の中心を通過する必要は無いのであるが。
325 金井村 城下から一里半(6キロ)。
距離が分かるだけである。
325
326
青畑村

金井村

左手に小さな村が近づき・・金井村と五間川をへだてて隣り合う青畑村。
しばらく歩いて行くと、村の入り口に出た。右に行けば金井村、左に行けば青畑村であることを示していた
金井村の本村に入った。ゆっくりと村を通り抜け、やがて丘沿いの道に出た。
五間川の上流に向かって歩いている。よって五間川の左、すなわち東側が青畑村。右側西側が金井村と推測できる。(P339の川筋で南北に流れていることが分かる)
P326にかけて説明が色々あるが、金井村の本村を通り過ぎたとある。これでは金井村の更に奥の東に方に欅御殿がありそうな、いささか矛盾しないか
339 金井村あたりの
五間川
大風は五間川の川べりに吹き降り川筋に沿う形で北に走って この表現から、このあたりでは五間川は南から北に流れていることが分かる。
339 権現さま
駒木山
金井村の丘のうしろにそびえる山 駒木山、南東からの風除けになっている。
341 欅御殿 文四郎は金井村の後ろに見える丘のはずれに眼をやった。 やはり欅御殿は金井村の奥、東又は南の方ではないか。P319金井村の西のはずれは矛盾しないか
351 郡代屋敷 青木と一緒に三の丸の郡代屋敷に戻り 位置はやはり特定できない。
351 青柳町 城門をでると道はゆるやかな下り。
坂を下りて・・・眼に町の灯が見えた。目抜き通りの商人町青柳町のあたり。
推測すれば青柳町は城の南西である
よって城の西の木戸口から出て、南下したと思える。
郷方の組屋敷の天神町は城の南か?
352 文四郎の
帰宅道
文四郎は橋を渡った・・・組屋敷にもどった。 この場合橋があるのが不可解である。
勿論小さな流れがあても不思議ではないが、橋を渡る意味が無いのでは?。
364 信夫屋 青柳町の信夫屋という木綿屋を知ってるか。 欅御殿からは城下の南西の青柳町はかなり遠い。
ちょっと不自然な気もするが・・・あえて遠くから買ったのかも知れない。
411 長平橋 金井村と青畑村をむすぶ長平橋と呼ぶ橋の下に。 五間川の上流に向かって右(西)が金井村、左(東)が青畑村である。よって東西に掛かる橋であろう。
413 五間川 柳の曲を過ぎてから、流れはゆるやかになり北西に向かい、舟は城下に近づいていった。 上流の五間川は南から北に流れていると思われる。しばらくして北東に多少蛇行し、鴨の曲がりで北東の流れを北に蛇行、三町ほど下流の柳の曲がりで北西に蛇行すると思われる。ヘアピンカーブが想像される。
413 横山屋敷 あやめ橋を知っているか
あやめ橋のあたりから陸に上がれば横山屋敷まではひと走りの距離である。
これから上がろうとする左側の岸あたり。
五間川の左、あやめ橋の近くで間違いない。P448に濠端の横山屋敷とあるから横山屋敷は城の東、あやめ橋の近くであろう。
414 代官町

織部正
の家

杉ノ森
御殿
あやめ橋からさらに橋二つ下流に行ったところで舟を荷上げ場着けた。 あやめ橋と千鳥橋の中間であろうか、或いは千鳥橋よりさらにもう一つ下流の橋か?
更に橋を二つも下流に・・・となるとかなり下流になるが。五間川は城の外濠もかねているので、それほど多くの橋があるとも思えない。とするとかなり下流なのか?。五間川の下流の様子は書かれていない。千鳥橋の更に下流まで直進(北へ)しているように思えるが・・。もし東に蛇行していると仮定すると、代官町から相当離れてしまうことになる。
415 代官町 河岸の道を注意深く眼をくばり、河岸を横切り代官町に通ずる道にはいる。 代官町は東西に細長い町か?
普通に考えると距離はかなりありそうに思えるのだが・・・しかし、二人が子供を抱いて歩く文節はかなり長いので納得はできる。しかし五間川が東に蛇行しているとすれば、かなりの違和感がある
421 家老屋敷
馬場前
文四郎は・・河岸の道にむかわず、山吹町から城の濠端を抜け馬場前に出る道をいそいだ。 代官町は五間川にも比較的近い、城の北側と推測できる。すなわち東に行かず南に向かってその後、濠に沿って更に南下したのではないか。納得できる文章。
437 小野道場 青柳町の裏通り。 小野道場の町名が分かる。
448 横山屋敷 その夜濠端の横山屋敷。 濠に沿った場所。あやめ橋の近く(413)であることは間違いあるまい。同じ家老でも里村と横山では、城の東西に分かれているように思える。この様なことがあるのか。
452 三宅との決闘の場所 河岸の道がほど近いと感じたころ、男がはじめて足をとめた。 横山屋敷から南下して来た道であろう。
河岸の道が近いとは、やはり横山屋敷は上記推測で正しいのでは。

 以上が抜粋した文章です。ほぼ網羅したと考えています。海坂藩作品と言うことから、基本的には延宝6年(1678年)や天明元年(1781年)の『鶴岡御城下御絵図』が参考になると思いますが、藤沢周平のことですから、いささかアレンジしている可能性があるのでは・・・そんな風に考えています。(個人的独断)

 最大の問題は、意外や意外、五間川の流れと橋をどう想定するか、ではないかと思っています。私の想定は以下の通りです。
五間川は、城のはるか南東に端を発し金井村を南から北に流れる。しばらくして北東に向きを変え、鴨の曲がりで北に流れを変え柳の曲がりで北西に向かい、その下流で北に蛇行して城下の東側を北上する。

 しばらくして右に蛇行し、東に流れる(明確に書かれていない・・・先入観)が、その場所は千鳥橋の手前か、又千鳥橋の下流か不明。城の東出口の真東に行者橋があると推測出来るが、五間川は城の外濠とされていた(P27)と、あるから、城の東側に橋が沢山あったとは思えない。その下流のあやめ橋はどの辺になるか(城の東の北角あたりか)、そして千鳥橋は・・・二人が陸に上がったあやめ橋のさらに二つ下流の橋とは・・・。織部正の家との距離を考慮し、少なくとも代官町との関係で推測すれば、あやめ橋の二つ下流の橋までは北に流れているのではないか

 その他沢山出てくる町名の場所は、情報量から特定出来ない町が多い。(重要と思われる地名はかなり特定可能ではある)これらは作品の風合いから各自独断で決めるのも一興であろう。又鶴岡の古地図や現在の町並みを参考にすることも許されるかもしれない。そしてそれはそれで正しいのであろう。私は純粋に作品からのみ描こうとした。そして止めたのであった。

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