前回は、三角縁神獣鏡のイメージと、簡単な出土状況をお話しましたが、今回はこの銅鏡が卑弥呼又は台与が魏からもらった鏡であるか否か、に関する専門家の意見のお話をします。
舶載鏡 | 図像がシャープで美しい仕上がりで技術的に高度なもので、中国で作られ日本にもたらされたと考えられている銅鏡 |
倭鏡 | 図像がややぼやけシャープさが無い。日本で真似をして作られたと考えられる銅鏡。仿製鏡(ぼうせいきょう)とも言う |
舶載鏡 | 奈良82枚、京都56枚、兵庫41枚、福岡30枚、岡山20枚、大阪19枚を始めとして、全部で約390枚 |
倭鏡(仿製鏡) | 大阪21枚、福岡19枚、奈良14枚、京都10枚を始めとして、全部で約120枚 |
次の一つは、『同笵鏡』(どうはんきょう)又は『 同型鏡』(どうけいきょう)に関するお話です。三角縁神獣鏡は、前述した通り、同じ物ではなく、沢山の形が存在しますが、同じ鋳型から鋳造された鏡を 同笵鏡または同型鏡 と言います。黒塚古墳出土の32枚の分析は、整理された情報が、私にはありませんので、それ以前までの分析では、 『88組』、『275枚』が、同笵鏡だそうです。今までで最も有名な、 椿井大塚山古墳から出土した32枚の三角縁神獣鏡のいずれかと同じ鏡を出土した古墳は、北は群馬県の三本木から南は宮崎県持田まで23ヶ所の広範囲に散らばっているそうです。何故同笵鏡がこのように広い範囲に散らばっているのでしょうか。三世紀後半に広範に分散することが可能だったのか、それとも四世紀以降に分配されたのでしょうか、これも大きな論点です。
議論の経過と現状
現在、最も中心になっている議論は、中国製か、国産か、すなわち舶載鏡か、倭鏡かです。そもそも三角縁神獣鏡が、邪馬台国問題との関連で着目されたのは、大正の初め『富岡謙蔵氏』の研究からだそうです。銅の出土地や作成者の出身地等から、魏の鏡とみなしたところからスタートし、その後『小林行雄氏』が 同笵鏡の流通論を展開し、これによって、卑弥呼の鏡説、且つ中国製の理論が確立されたかにみえた。その後しばらくして、多くの学者が反論を開始、1962年『森浩一氏』が実用性に欠ける点等から国産品が大半である、呉の工人が日本に来て制作したと言う説を発表。その後多くの甲論乙駁が交わされました。主として九州説の方々は国産、畿内説の方々は当然中国製論です。(この辺が面白いところですね)こうして膠着状態に入りました。
そこへ1986年『景初四年』鏡が出土したわけです。最初は 舶載鏡(中国産)を裏付ける強力な証拠となりましたが、この年号は、魏には存在しない年号であることが判りました。(景初は三年で終わり)。したがって逆に、これが 舶載鏡説を弱くする決定打となってしまいました。その後中国の専門家も入り乱れて喧喧諤諤の議論が続いております。ここで交わされている議論はかなり専門的であり、論点も多く、かつ沢山の人の意見がありますのでここには掲載不可能です。しかし実に面白い論点が多々あります。このテーマに対する、研究の歴史、各論の詳細に関しては、『岡本健一氏の邪馬台国論争・・講談社』が実に綿密に精査され、素人にも読める書籍としてあります。論点の詳細に興味のある方、御一読をお勧めします。(なお私は作者と一面識もありません・・念のため)
以下に舶載鏡、倭鏡それぞれの立場で主張している点を整理してみましょう。(東京新聞社の資料を参考にしています)
論点 | 魏鏡説 | 国産説 |
中国で一枚も出土しない | 倭人の為に特鋳した | 中国鏡にしては大きく、重すぎ、非実用的 |
枚数が多すぎる | 240年以降何度か下賜された | 銅鏡百枚をはるかに上回る記述は240年以降ない |
鋳造した年 | 紀年銘年に鋳造したものとして当然、この時代倭に技術無し | 遣使を記念し、後世又はほぼ同時期に倭で鋳造 |
銘文『銅出徐州、師出洛陽』 | 製造地を示す、また工人の出身地を示す | 単なる決まり文句、鋳文に特鋳の記述が無い |
銘文『景初四年』 | 改元前に作った、又は改元の通知が遅れた、帰国すれば改元が判るのに後世、存在しない年号を入れるはずが無い | 中国の官の工房で、存在しない年号を入れることはありえない 、使者の帰国以前に国内で製造 |
銘文『至東海』 | 神仙思想に基づく銘文で実際の事実を示さない | 呉の工人が来日し、日本で製造したことを明白に示す銘文 |
魏の時代より後の古墳から出土 | 鏡をしばらく埋めずに、後世に伝えた | 年代ギャップがあるのは魏の鏡としては不自然 |
国産であるとしたら、本来の魏から賜った鏡はどのようなものでしょうか、『漢鏡』でしょうか。下賜されているのになぜ更に魏の年号入りを国内で作ったのでしょうか、また中国産だとすれば 卑弥呼の鏡なのでしょうか、また同笵鏡が出土する地域は150ヶ所もの広範に分配するほどもらったのでしょうか。上記の論点と共に気になるところです。