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「風の果て」市之丞の真意

 次に 2)市之丞の真意について。これはこの作品の最大の謎ではないでしょうか。市之丞はなぜ果たし状を突きつけてきたのか、その真意はどこにあったのか。これは悩みました。というのもなにしろ理由が見つからない。これだ!と思った次の瞬間、しかしそれは親友と斬りあう理由になるだろうか、と考えてしまうと・・・うーむ。ちなみに僕が考えた理由というのは

   a)杉山忠兵衛の命令による。
  b)密かに慕い続けた杉山夫人を、結果として桑山又左衛門が苦しめたから。
  c)又左衛門が、実は自分など眼中にないのだということを実感してしまったから。
なのですが・・・。

 a)は最初からほとんど考えませんでしたね。市之丞が忠兵衛から陰扶持を受けていたことは間違いないと思いますが、かと言って市之丞は忠兵衛に対してさほどの思い入れがあるとは思えません。忠兵衛の失脚を、腹の中では案外笑っているんじゃないかという気さえします。市之丞と忠兵衛の関係は、人前では秘匿され、互いの間には上下関係はあっても腹のうちでは軽んじあっているようなドライなものではなかったでしょうか。市之丞は生活のために忠兵衛と組み、忠兵衛は忠兵衛で、市之丞の腹のうちなど分かったうえで手駒として使っていただけ・・・そんな気がします。むしろ市之丞は心情的にはよほど又左衛門寄りだったと言えるでしょう。そんな市之丞が、たとえ忠兵衛の命令自体あったとしても、又左衛門を討とうとするとは思えないのです。

 b)は・・・恥ずかしながら、つい数年前までこれが理由だと思っていました。市之丞は純愛の人である。今もなお変わることなく慕い続けるちか殿のため、誰に想いを洩らすことなく斬り合いに臨んだ・・・。けっこう良いんじゃないかと思っていたのですが、どうにもこうにも気恥ずかしくてダメ(笑)。それに「しかし、それは親友と斬りあう理由になるだろうか」と考えると、どうしても首を傾げざるを得ない。これも理由とはいえないでしょう。

 さてc)です。今年の三月くらいまで、理由としてはこれしかない、と思っていました。先に述べたように、市之丞は忠兵衛から陰扶持を受けていると思われます。忠兵衛は、又左衛門が自分にとって無害であるかどうかを調べるために、ちょくちょく市之丞を又左衛門の屋敷に差し向けていたのではないでしょうか。そしていよいよ目障りになってきた又左衛門を失脚させるため、文化三年三月、最後の念押しとして市之丞が又左衛門屋敷を訪れます。そして市之丞は又左衛門に対し葛藤を抱えつつ依頼をこなし、忠兵衛に「又左衛門に害意なし。」と報告しますが・・・。又左衛門は、彼らが考えていたような現場上がりの愚直な家老ではありませんでした。結局、又左衛門を失脚させようとしたその席で、忠兵衛が自らの墓穴を掘ることになったのは作中のとおりです。

 さて、ここで問題になるのは市之丞の心情です。市之丞は、さほど好きとも言えない忠兵衛と組み、心情的にはむしろ好意を持っていた又左衛門を探り続けていました。そこには又左衛門に対する嫉妬も幾分はあったでしょう。分不相応な身分に就くから俺にまでこんなことをされるんじゃないか、などと内心思いつつ酒を酌み交わしたりもしたでしょう。そしていよいよ忠兵衛が又左衛門追い落としにかかったとき、それに一役買うことになった市之丞は、又左衛門に同情しつつもついに予想通りになったと思ってはいなかったでしょうか。世の中には分というものがある。愚直な正論だけではいつか潰される。お前にもとうとうその日がきたのだ・・・と。しかし政変で生き残ったのは又左衛門でした。このとき初めて市之丞は気付くのです。又左衛門は、自分など眼中になかったのだと・・・。

 市之丞が内心詫びながら杉山忠兵衛に対する又左衛門の気持ちを探っていたのに対し、又左衛門は、その本心を明かすことなく愚直な家老を演じきったのです。いえこれは又左衛門に罪があるわけではありません。ただ、市之丞が又左衛門の前に座る男ではなかったと、ただそれだけのことだったのです。はからずもそれは作中で又左衛門が味わった屈辱とまったく同じものでした。

 ところで又左衛門は自分がされたことと同じことを市之丞に対してしてしまったことになりますが、又左衛門がそれに気付くことはおそらくないでしょう。我々もまた、気付くことなく人を傷つけているものなのですから。ともあれ、このことが市之丞のプライドをいたく傷つけたことは事実でしょう。この屈辱を晴らすには、もはや刀を取っての斬り合いしかない。武士の面目を保つため、市之丞は果たし状をつきつけたのです。

 ・・・「しかしそれは親友と斬りあう理由になるだろうか」・・・そう考えると、これもやはり理由とは言いきれません。

そこで

 d)市之丞は、自分の人生を“なにか”に残すため、又左衛門に果たし状を送ってきた。というのが、今僕がたどりついている「市之丞の真意」です。・・・将来、変わるかもしれませんが(笑)・・・。政変により、市之丞は自分の人生をイヤというほど見つめなおさせられます。杉山忠兵衛も、桑山又左衛門も、三矢庄六も、皆“なにか”を持っている。地位であれ、名誉であれ、あるいは守るべき家族であれ。対して自分には何もない。まったく何もない。今まで自分は影に生きる者としてそれに満足して生きてきたが、それも幻だった。自分は又左衛門の前に座る男ではなかった。ただのひねくれた厄介叔父にすぎなかった。市之丞は、今の言葉でいうところの「負け組」でした。(大嫌いな言葉ですが)。何も持たない男が心情的にはどん底まで堕ちてしまったのです。市之丞の絶望感はいかばかりだったでしょうか。

 しかし、それでも普通なら果し合いに挑むようなことはなかったでしょう。皮肉屋ですが、市之丞は案外常識人です。安易な怒りで斬りあいに挑むよりも、傷ついた心を抱えながら生きる道を探したような気がします。ところが、そんな市之丞を最後に打ちのめしたものがあったのです。 「死病にとりつかれた」 もはや市之丞に時間は残されていません。何のために生まれ、何のために生きてきたのか。俺の今までの人生はなんだったのか。悔やんでも悔やみきれない人生を、やりなおしのきかない人生を、しかし、今これから生き直すことはできたかもしれないのに・・・!病が、それをも奪い去ってゆくのです。

 市之丞に残されている道は二つ。このまま死ぬか、闘って死ぬか。市之丞は後者を取りました。勝ち負けも、理由も、ここではさして問題ではありません。勝てば「家老を斬った男」負ければ「家老に斬られた男」という“なにか”を残すことが(一応)できますが、それ自体、市之丞にはさほどの意味はありません。「奴は、お前に斬られて死にたかったのかもしれん」市之丞は、自分が生きていたのだという証を、誰かの心に刻み付けたかったのではないでしょうか。そしてそれは、親友桑山又左衛門をおいて他になかったと、僕には思えてならないのです。

 今回もまた僕の駄文にお付き合いくださった皆様方に御礼を申し上げます。

2007年10月15日  青江松三郎

 素晴らしい心理分析、さすが深読みの青江松三郎さん。d説に納得です。(たーさん追記)

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